浅羽通明辻説法 ヤバい現在を語れっ!! 第3回 軍事思想史から観た「風立ちぬ」(宮崎駿監督)の近代(雑談抜きバージョン)

(講義時間:約1時間41分)

講義内容

旧月刊「CURCUS」誌の人気コラム「浅羽通明辻説法」ライヴ講義、第二弾は、宮崎駿監督の問題作「風立ちぬ」の徹底解読!!
兵器、戦闘機大好きで、素晴らしいバトルシーンで楽しませてくれた宮崎監督は憲法九条護持を訴える反戦の人。これは矛盾ではなく必然だった!
知られざる知の系譜、軍事思想史、特にイタリア人ドゥーエの戦略爆撃理論がわかれば、「風立ちぬ」は、「乏しき時代の詩人」(ハイデガー)ならぬ「爆撃機の時代の戦闘機者」の物語であるのが、見えてくる!松本零士の戦場マンガ、伊藤整の恋愛論などを補助線として駆使しながら、文明史的過渡期の物語としての「風立ちぬ」を露わにしてみせる。必聴の浅羽通明物語論ライヴ!!

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プロローグ(約8分)

○「軍事思想史から観た「風立ちぬ」(宮崎駿監督)の近代 (雑談ありバージョン)」講義録(前半)

○「軍事思想史から観た「風立ちぬ」(宮崎駿監督)の近代 (雑談ありバージョン)」講義録(後半)

では、それを別の角度から照らし出したいと思いますけれども、松本零士という人がいます。漫画家ですね。皆さんだったら、どんな作品が思い浮かびますか。もう過去の人ですかね。でも、今、キャプテンハーロックを人形アニメみたいなので、やってますから、まだまだ現在の人だって気もしますけども。暗い青春をギャグマンガにした「男おいどん」とか、私なんかの世代には、40年ぐらい前で懐かしいですね。よく分からない、ぷーたろう生活をしてる人を描いた、聖凡人伝っていう非常にシュールな作品があって、そんなのも私は好きですけど、一般的に有名なのは、銀河鉄道999、そのあたりですね。宇宙海賊キャプテンハーロックその辺ですかね。そういう松本零士なんですけど、松本零士の作品のですね、コックピットシリーズってのがあります。今はでてないかな。ブックオフとか行けば結構ありますけど、小学館の漫画文庫から、「ザ・コックピット」ってタイトルで、6巻出てます。これは短編です。全部読み切りです。シリーズでもないし、つながってもいない。これも銀河鉄道999とかを描くちょっと前ぐらいかな、70年代の真ん中ぐらいに、松本零士さんが大量に書いていた作品で、要するに戦争漫画です。大体第2次大戦を扱ってる。太平洋戦争、大東亜戦争で日本軍が出てきたりするものありますけど、ヨーロッパ戦線が多いですね、ドイツ軍とかイギリス軍とかが出てくる、そういう戦争漫画です。そういう短編ばっかです。松本零士のファンの中では、これが一番いい、これが一番好きだっていう人も少なくありません。で、戦争漫画なんですけれども、その戦争漫画は一種独特ですね。私も銀河鉄道999とか流行った、今から三十数年前に読んで、なんじゃこれはと思いましたけどもね。呉英智師匠が、漫画評論家でもありますけども、呉先生も当時、コックピットシリーズは、よく取り上げてますね。これはですね、当時だから、まだ「はだしのゲン」とか完結してないんじゃないかな。当時でも男の子はみんな戦争好きですし、兵器好きですから、結局、戦争賛美だろうなんて漫画はありました。でも、最終的にやっぱり平和が尊いねとかね、やっぱりこんな犠牲はなんなんだとかね、そんな場面を免罪符として入れるっていうのが多いわけですよ。世の中が完全に、今以上に、憲法九条が大事で、日本は平和国家で、あの戦争は間違っていたって風潮がずっと強い時代です。
ところがね、この松本零士の漫画というのはですね、かっこいい兵器がいっぱい出てくる。さっきも、いったようじ、ナチには、かっこいい兵器がいっぱいあります。松本零士はメカかなりうまいですから。宮崎駿も凄いですけど、松本零士もなかなかのものです。メッサーシュミットMe262、これは、二次大戦中ほんとに飛んだ世界最初のロケット戦闘機です。そんなのがかっこよく出てくるわけですよ。さっき言った、V2号ロケットとか、V1号ジェットミサイルみたいなの、そんなのもカッコ良く描かれています。じゃあ、これは戦争礼賛漫画なのかというとある意味ではそうです。ところがこの人のコックピットシリーズっていう戦争漫画の特徴っていうのは、大日本帝国とか、ナチスドイツとかを、賛美は全然してない。むしろ、その反対です。でも、反戦とか、ヒューマニズムから批判するんじゃなくて、戦争賛美から批判する。お話として格好良くて面白いんだから、そんなこと、本当は、いうのは野暮なんですけど、あえて野暮に理屈づけると、そういう漫画なんです。
ええ、どういうのかっていうと、その典型的な作品を一つだけ紹介しましょう。今のコックピットの文庫版だったら、第4巻に入っている成層圏気流って話です。これはですね、二次大戦中のナチスドイツ軍の空軍の戦闘機パイロトが主人公です。その戦闘機パイロットは、天才的な戦闘機乗りで、撃墜王で、フランスやイギリスやアメリカの戦闘機をバンバン撃ち落としていく。危機一発で帰ってきたりして、天才的な戦闘機乗りのエースとして知られている。しかし、ナチはもう敗北が近いわけです。敗北が近いときに彼は、ペーネミュンデというところまで、ある巨大な飛行機を護衛してくれという任務を命じられるわけです。その巨大な飛行機っていうのは、こんなことは現実にあるわけないと思いますけど、空の要塞B-17です。ナチスドイツがアメリカ軍が、落っことしたのを、分捕って、飛ばせるようにした。そういう飛行機だとうことです。ドイツにはそんなに大きな輸送機のエンジンはない。それがペーネミュンデまで飛ぶ。当然、連合軍をは、それを攻撃してくる可能性が大きいから、それを守ってくれ、お前の手で守ってくれというふうに、この主人公は命じられるわけです。それで飛ぶんですね。ところが、そのペーネミュンデってのは何かというと、分かる人には、「おおっ」て、分かるでしょうけど、これはV2号、さっき言った、ロンドン狙って飛んだ世界最初の弾道ミサイルだったV2号の基地のあるところなんですよね。そこまで、何運ぶのか…ってことですね。もちろん、これはフィクションで、半分SFですが、そこで運ぶのは、ナチスが密かに開発していた原爆なんです。起死回生の手として、原爆をペーネミュンデまで運んで、V2号に載せて、ニューヨークは無理でも、ロンドンをぶっ潰す、その作戦だったんですね。それで、この主人公の名パイロットっていうのは、戦争になって軍人になっちゃったけど、それまでは、秀才で、核物理学の若い研究者だったって設定になっています。だから、それに薄々気づいちゃうんですね。その船には、恩師と研究所で同僚だった彼女が輸送機の中に乗ってるんですよ。研究者として。それで守って、連合国の連中と戦ったりするんですけど、最終的に彼は、味方で恩師と彼女が乗っているその飛行機を見殺しにします。そういうお話なんですね。
なんで、見殺しにするのか。今だったら、こんな核兵器でどれだけの人が死ぬのかとか、この戦争が許せないとか、そういうのが普通なんだけど、これは違うんですよね。なんで、彼は大事な人たちを殺してまで、核兵器を運ぶ輸送機を潰さなきゃいけなかったのかっていうと、騎士の時代が、ナイトの時代が終わってしまうからだっていうんですよね。つまり戦闘機乗りっていうのは、一人で飛行機を操る。自分の技量っていうのがもろにモノをいう。敵の中の名パイロットと一騎打ちをする。男と男の戦い、侍と侍との戦い、ナイトとナイトの戦いっていうふうになるんですよ。実際、そうかは知りませんよ。近代の戦争の中で、物量戦の中で、多少そういうところもあるかなっていう、部分ではあるわけです。零戦のパイロットについても、いろんな伝説がありますけど、もう10年ぐらい前に亡くなりましたけど、坂井三郎って人がいますね、天才的な零戦パイロットだった、彼の伝記は「大空のサムライ」っていう伝記ですね。世界中で売れました。実際そういうところがあることは、事実なんです。戦闘機乗りっていうのは、個の戦いっていうのを、戦う。石原莞爾も言ってます。時代が進むに従って、戦争の規模は巨大になっていく。で、戦争を決定する単位っていうのはどんどん小さくなっていく。今、戦闘機は一人で乗ってるのが、重要だっていうのは、そこまできたんだってことだ。でも、戦闘機乗りはまだで、次に来る戦争っていうのは、カギを握る一人っていうのは、多分、天才ハッカーになるんじゃないかと。むしろこれからはって気が私は、するんですけど。当時だったら、戦闘機乗りっていうのは、そういうところにいるわけです。
その戦闘機乗りのトップであった、成層圏気流の主人公が、そのようやくわずかに残ってる騎士道の時代が、核兵器の時代になったら、なくなってします。つまり、ドゥーエのいう戦略爆撃で、戦争がすぐ終わる、あるいは、抑止されるんであって、戦争の中で磨かれて輝く騎士道精神とか、日本でいったら侍の精神ってものは、もう微塵もなくなってしまう。そんな時代を来させたくはない。無理と思っても、燈籠の斧でも少なくとも俺は、そっちに加担したくないと言って、見殺しにしていくと。そういうお話なんです。だから、戦争がより好きな人が、ナチスを、日本を、さらにその後のアメリカも…、核の軍事力というものを批判する。そういう非常に奇妙なお話になってるわけですね。
これは非常に新鮮でした。それ以降もあんまりないんじゃないですか、こういうのは。このコックピットシリーズを見ますと、似たようなこの構図の話っていうのが、いっぱい出てきます。だから、今でも、このコックピットシリーズってのは、松本零士の代表作だと思うし、思想的にも貴重だと思っています。
ロジェ・カイヨワの「戦争論」とか、そういうのを見ますと、戦争っていうのは、近代以前においては儀式だった。今から見ると中世の戦争、日本だったら戦国時代とか、もっと前の戦争、そのころの戦争は、あんまり人は死んでない。ちょっと劣勢になると、傭兵はわっと逃げちゃうし、負けそうになったら、わっと退却しちゃうから、あんまり人は死んでない。むしろ、ぶつかること自体に意味があって、そのためにいろんな儀礼があった。日本だったら、ほら貝を吹くとかね。向うだったら騎士たちが一騎打ちをするとかね。そういう儀式的なものだった。それが近代になって、いつごろからか、フランス革命の前後あたりから、本当に力と力がぶつかるようになった。それは、国民軍、民主主義ってものができたときから、個人主義みたいなものができたときから、戦争は悲惨になってきた。とうう、極めて面白い論考を、ロジェ・カイヨワって人は言ってます。それは同時に民主主義や、個人主義の誕生と、さらに生産力の拡大ですね。科学技術が発達して、物資が非常に大量に生産できるようになる。なればなるほど、戦争は悲惨になっていった。
これは、ロジェ・カイヨワのお友達の文学者で、思想家の、ジョルジュ・バタイユって人がいますけども、バタイユっていう人は、人間はいろんなものを生産して、それで豊かになってるけど、その反対のベクトルも非常にもっている。無駄づかいをする、せっかく生み出したものをぶち壊す。そういうことも必要というか、したくなっちゃう存在だと。チベットのポタラ宮とか、あの壮大なものっていうのを、あんまり生産力ないのに何やってんのと思いませんか。でも、そういうことを人間しちゃうんだっていうふうに、バタイユは言うわけです。カイヨワもそういう思想を結構共有しています。だから、戦争がどんどん今、悲惨になってる。大量死の時代が来てる。それはその分世界が、ここ19世紀、20世紀に非常に豊かになってきたことと、実は、対応してるんだ。もっと人間が貧しかった中世とか古代においては、戦争は、人殺しもするけど、人殺しのある、生贄も少し殺す儀礼だった、そういうこと言ってるわけですね。
そう考えると、この戦闘機の思想、それと松本零士がフィクションとして描いた戦闘機の思想っていうのは、そういうふうな戦争が、文化的だった、儀礼的だった、そういうふうな歴史っていうのも、20世紀に蘇えらせるわずかな部分なわけです。それすらもなくなってしまうのは許せない。それが松本零士の主人公たちの叫びなんです。この漫画ではね。それ考えると宮崎駿って人も非常に面白く思えてきます。宮崎駿について、今回、改めてよく言われていることですが、兵器、飛行機そういうもの大好きなんだあの人は。そういうふうな絵っていうのは、本当にうまいし、嫌いじゃかけないし、本当に好きで書いてる。自分でもそう言ってる。さっきの対談でも戦闘機は大好きなんですよ、っていうふうに言ってます。兵器工場の息子さんってこともありますからね。
そういう人なのにメッセージとしては、インタビューとかそういうところでは、反戦、憲法九条護持、そういうことをまじめに力説している。それもまた本気でしょう。この二つっていうのは、どういうふうに繋がるのか。矛盾しないのか。矛盾でもいいです別に。
でも、今いったことっていうのは、ちょっとしたヒントにならないですかね。彼は爆撃機嫌いとは言っていません、爆撃機もすごい好きらしいです。でも、どっちかっていると戦闘機なんじゃないか。それは彼自身がどっちかというと、戦闘機乗りっぽい気質をもっているから。自分の手仕事で勝負するアニメーターとしての気質と共通するから。それに、そろそろ限界が見えてきたんで、引退宣言とか、そのへんが絡んでくるんでしょうけれど。
そういうふうな戦闘機乗りの思想っていうのが、ドゥーエの戦略爆撃の思想とは違うところにある。で、究極的には対立するもんなんじゃないか。そう考えると結構面白いんじゃないかと思います。
「紅の豚」っていう作品がありますね。ちょっと前にテレビで、また放映されました。金曜日の夜にテレビでジブリ作品をやると株とか、為替とかが、バーっと上がったり、バーッと下がったりするんですよ。ジブリ暴落とかジブリ高騰とかいうんですね。最近は日経新聞とかにも、もちろん半分冗談でだけど、載るようになりましたね。今まで、第一金曜日にジブリの作品をテレビで放映したことは、10回あって、そのうちの9回、その現象が起こったという…、こないだも起こりましたね。その前の前も起こりましたね。前の前は、だいたい私はそれを予知していたから、ちょっと儲けましたね。っていうのは、まあ、偶然ですけどね。でもね、金曜日はアメリカの、雇用統計とかの指標がでるときが多いから、たまたまそれとかぶるからじゃないか、という気もしますけども。もちろん、これはまた、余計な横道でありました。
その「紅の豚」ですけど、今回の「風立ちぬ」と、一番近い作品というのを過去に求めるとですね、「天空の城ラピュタ」なんかはね、空が、飛行機、飛行船、そういうふうなものが出てきますけど、一番近いのはこれ、「紅の豚」でしょう。一つは主人公が大人で、大人の話になっているということ、それと史実と多少は近い。
今度は一応実際の人物モデルにしてますし、「紅の豚」は、史実、モデルはないですけど、一応、一次大戦後のイタリア、アドリア海周辺というあたりに舞台をおいてます。で、そこで主人公はなぜか豚になってしまった。理由は全く説明されないんですけども、なぜか豚になってしまった。一次大戦のイタリアの戦闘機乗りです。ポルコ・ロッソっていうのは。ポルコ・ロッソって紅の豚っていう意味ですね。イタリア語らしいです。この人は主人公で、ライバルが空賊、山賊、海賊みたいな形で、食いっぱぐれたかつての戦闘機乗りで、自分の飛行機、ボロ飛行機で盗賊をやっている。その連中と、いろんな小競り合いがあって、ついに決闘するというふうな、お話なんです。メインのストーリーとは違う背景的なところですけど、イタリアの空軍、正規の軍隊は当然のことながら、そういうふうな空賊、賊の連中っていうのは、退治したいわけです。このポルコ・ロッソっていうのは、一次大戦のときには英雄なんだけど、その後、空軍から背を向けて、一人独立した飛行機乗りになっている。そういうお話になっています。なんでなのかというと、よくわかりません。でも、なんとなくわかりますね。この、ポルコ・ロッソ、「紅の豚」の時代っていうのは、ムッソリーニ政権が成立した直後らしいんです。で、実際に、ムッソリーニ政権が、後ろで動いているのがちょっと出てきます。そいつらを全部殲滅したいイタリア空軍っていうのは、ムッソリーニの軍隊だということもチラッと出てきます。でも、昔の戦友が向うの中にいて、ちょっとスパイ的に、ポルコ・ロッソに「やばい、お前逃げろ」と、教えてくれたりとかする。そういうふうな話になってます。それでですね、いわば悪友というか、彼とライバルである空賊との勝負が、決着がついたときに、彼らの戦いを見るために、他の空賊たちがみんな集まってきたわけですね。アドリア海の悪たちが、みんな一つの島に、みんな集まってきた。これは殲滅のチャンスだってなことで、イタリア空軍が一斉出動してくる。それを内部にいる友達が通報してきて、「やばいぞ、すぐ散れっ」ていうところが、最後になります。
ガーッとくるイタリア空軍みたいなのが、映るわけですけど、それはまさに空を埋める大編隊です。爆撃機でしょう。
さっき、いったイタリアが生み出した、制空権と、戦略爆撃の思想家、ジュリオ・ドゥーエですけど、アメリカのウィリアム・ミッチェルにしてもそうだけど、当時、空軍の思想家、軍事思想家っていうのは、不遇です。なんでかっていうと、当時のそれまでの、偉い軍人さんとかは、嫌だったでしょう。なんでかっていうと、陸軍や海軍はもう終わりだっていわれるわけですから。戦略爆撃だからお前ら必要ないって言われるわけですから。で、実際にそれと同じようなこと言ってるんですよ。空軍を独立して作れって。それまで、陸軍や海軍の人も飛行機は重要だよっていうのは、分かってるから、いろいろ開発させてた。しかし、空軍ってのを独立して作って、それが戦争の主力だ。逆に言えば、陸軍や海軍はもう補助だよ。逆だろこれからと言われる。だから、みんな嫌がるらしくて、ろくな目に合ってません。ミッチェルって人も、軍法会議までかけられてます。戦後に映画になったらしいですけどね、ゲーリークーパー主演の「軍法会議」という。
このドゥーエさんも、左遷させられたり、降格させられたり、散々な目に合ってます。だから、イタリア軍はろくでもないと思ってたらしいです。で、晩年にですね、ムッソリーニが台頭します。そうすると、この新しい政権だったら、俺のいうこと聞いてくれるかもしれないと接近します。ムッソリーニは、新しいことやりたかったらしくて、ドゥーエの権限を結構採用するんです。だから、最後は、ドゥーエは、ムッソリーニ派になります。で、ムッソリーニは空軍を独立させるんですけど、その背後にはドゥーエの思想があったんじゃないか。その割には使えてないんですけどね、全然ね。で、まあ、幸か不幸か分かりませんけど、ムッソリーニが、わ〜っと台頭してきたころに、ドゥーエは寿命で死にます。
だから、考えてみますと、「紅の豚」の最後で、主人公達、全部を皆殺しにして、遠くから襲ってくるイタリア空軍っていうのは、ドゥーエの思想を背景にしたムッソリーニ空軍なんです。それで、みんな蜘蛛の子を散らせるように、ワ〜っと逃げていくっていうんで、終わりますね。そう考えると、やっぱり、ここで「紅の豚」すら、背景においては、爆撃機対戦闘機のお話なんじゃないかということになります。
それでですね、ついでにさっきのカイヨワとか松本零士とかがいっている、戦闘機が、騎士道、武士道の復活の幻想っていうのを、育むんだということの傍証の一つを上げますと、一次大戦のとき、まだ、飛行機がようやく戦場に出たとき、飛行機乗りっていうのは、貴族が多いんですよ。だから、作ったカプローニも貴族、伯爵ですし、ツェッッペリン、飛行船を開発した、ツェッッペリンって人もツェッッペリン伯爵です。一次大戦のドイツの最大の撃墜王っていうふう言われる、半分伝説の撃墜王にヒットホーヘンっていう人がいますけど、この人も男爵なんです。しかもですね、イタリア空軍では、ダンヌンツィオっていう人がいます。
「ダンヌンツィオに夢中」っていう、本が筒井康隆にあります。これは、何かっていうと、三島由紀夫伝なんです。雑誌に発表するときには、小説としては発表した。本でおさめるときには、評論集でおさめた。内容、全然変わってません。なんでなのかっていうと、雑誌では、小説のほうが原稿料高いらしいんです。一種の皮肉ですね。小説といえば小説、評論といえば評論ってなっていて。
その論旨はですね、三島由紀夫は、耽美的、デカダンス的な思考で、ダンヌンツィオっていうイタリアの詩人に憧れた。で、その作品もダンヌンツィオの影響を受け、その後の行動っていうのもダンヌンツィオの真似をひたすらいろんなところでした。最後の盾の会を作っての、あのアホな突撃っていうのも、ダンヌンツィオがそういうふうな軍隊ごっこ、軍隊とか政治的な運動が好きだったから、それをそのまま真似した。そういう論旨です。
それが三島論としてどこまで正しいかは、わかりません。そういうと、ダンヌンツィオって人がどういう人か、少し分かったかもしれません。20世紀はじめのイタリアの三島由紀夫です。でも、この人は三島と違って、本当に軍隊に参戦してます。しかも戦闘機乗りです。それで、戦闘機乗りで空中戦で、右だか、左だか、眼に弾があたって、片目失明してます。もう本格的ですね。だから、戦後も大英雄になります。イタリアを代表する大詩人で、今は、あんまり読まれませんけど、当時は日本で出た文学全集にダンヌンツィオの巻ありますからね。「死の勝利」とか。ヴィスコンティなんかも、戦後「イノセント」とか、映画にしてますからね。イタリアでは大作家です。だから戦後は、我が国の誇る大詩人で、戦争の英雄と、ダンヌンツィオを持ち上げに持ち上げます。それでいい気になりまして、三島由紀夫みたいに、自分のファンからなる軍隊を編成します。フィウーメって街がある。これはオーストリア=ハンガリー帝国の街なんだけれど、イタリア人が多かった。昔からイタリアはうちの領土だって主張してた。ところが、戦争に負けて終わったあとで、あそこ、うちのもんだから、うちのものにしてくださいっていったけど、お前たちロクに戦ってないじゃんって言われて、フィウーメは今のユーゴのものになります。それで、ダンヌンツィオ、何やるかっていうと、自分の軍隊引き入れて、フィウーメに潜入して、フィウーメ占領しちゃうんだよ。しかも数か月、制圧してるんだよ。詩人に制圧される街ってなんだよって思うんだけど、まだ、楽しい時代だったんですね。
でも、こういうふうなまさに貴族的な人ね、こういう人が活躍できる場っていうと、やっぱり、戦闘機だったと考えると、さっきの私の話っていうのも、ちょっと、リアリティーあるんじゃないですか。今、話した、爆撃機対戦闘機、戦略爆撃の時代と、その直前にあった戦闘機乗りが、騎士道や武士道を気取れたって言ったら悪いけれども、そういう夢を一瞬育めた時代。この対立っていうのを考えると、「風立ちぬ」というのも結構面白く見えてくるわけですね。で、そこを考えるとですね、今まで私が一切触れなかった、「風立ちぬ」のもう一つの大きなストーリーの側面、ラブストーリーですね。そちらのほうも、ちょっと、面白く位置づけることできるかもしれません。
宮崎駿監督は、零戦を開発した堀越二郎という人の物語をほとんどが、フィクションであれ、名前は堀孤二郎でアニメに登場させた。でも、堀辰雄という人も同じ堀つながりで、物語に取り込んでしまって、堀辰雄の世界というのも、お話の中に入れちゃってます。だから、タイトルも「風立ちぬ」、堀辰雄の代表作の名前ですね。ヒロインの名前は、堀辰雄の「風立ちぬ」という小説のヒロインは、節子さんなんですけど、「奈穂子」という、堀辰雄の別の小説からとってます。そちらのラブストーリですね。さっきも申しましたように、岡田斗司夫さんは、そちらのほうに対して非常に丹念な読み込みというのを、披露してますので、興味ある人は参考にしてください。私はそっちのほうは、そんなに突っ込みはしませんけど、一応これから少し話します。
堀辰雄という作家は、私はそんなに読んでないし、あんまりピンとこないほうなんですけどね。ちくまの日本文学全集という、この文庫版の全集がありまして、90年代に全50冊でて、評判がいいので、あと20冊ぐらい追加されたのかな。これがですね、なかなか、面白い。まさに、平成になってから出た文学全集で、作品のセレクトなんかも、それまでの文学全集では、あんまり取り上げられなかった方、例えば、福永武彦っていう作家がいますね。これまでの文学全集とか出ると、必ず収録はされた。この人は純文学の人で、詩人なんだけど、ミステリーマニアです。ミステリーを書いてるんですよ。完全犯罪とか。結構、面白んです。さらに、もう一つ、ついでにいうと、モスラですね。ゴジラと並ぶ日本の怪獣で、蛾みたいなの。あのモスラには原作がありまして、三人の作家が半分冗談、遊びで書いたんです。福永武彦はその一人でもあるんです。だから、SFも書いてる。で、この文学全集のところに、ちゃんとこの、完全犯罪とかミステリーも入れてるんです。そういうところが柔軟というか、非常に面白い全集になってますね。代表作も結構入ってるけど、この人、こんなの書いてる人なのと思わせるようなものも、すかさず入れてるところが面白いです。しかも、昔の文学全集の時代だったら、マイナー作家とか、非常に異端的な作家だから、排除されちゃったり、非常にはじっこのほうにいっちゃってる作家を、「平成の今の我々が読むと、面白いぞ」ということで、一巻与えてるっていうのも結構あります。内田百の巻がありますね。夢野久作の巻がありますね。そういうふうな意味で、これは非常に私としても面白くて、全巻読んでやろうと思ったことある。全巻は無理だったけど、三分の二ぐらいは頑張って読みました。そういう純文学の人と並んで、江戸川乱歩の巻ってあるのも、なかなか楽しいですね。
え〜なんですけど、私が今持ってるのが堀辰雄の巻です。堀辰雄読むことが、自分があるとは当時、思わなかったんだけど、このシリーズに入ってるから、読もうかと思って読んで、「へ〜、こういうふうなのか」なんて思いました。でも、まあ、大好きにはやっぱならなかったな。でも、この中に「風立ちぬ」が入ってるんです。奈穂子は入ってないけれど。その記憶がありましてね。
だから「風立ちぬ」を見て、堀辰雄の世界も宮崎駿は導入してるんです。宮崎駿としても、堀辰雄は好きじゃなかったし、興味なかったみたいです。つい、最近まで。「何?堀辰雄」って感じだったようです。そのへんもちょっと、親近感あったりします。ここでですね、解説が池内紀という人が書いています。池内紀って人のエッセーとか、評論とか、評伝、全部読んでるわけじゃないけど、どれも私は信頼していて、結構読むのは好きですね。この全集は解説が三人ぐらい受け持っていて、他だったら、安野光雅さんとかね、そういう人がいい解説書いてますけども、池内紀さんが書いてる巻、結構多いです。で、堀辰雄の巻は池内紀さん。
その中でですね、真の婚約という言葉に池内紀さんは注目している。アニメ「風立ちぬ」と小説「風立ちぬ」の中の恋愛部分とは、同じではないですけど、ある程度はかぶります。要するに主人公のが心から愛してる婚約者が、結核で、冬のサナトリウムで死んでいく。で、軽井沢でのわずかな、短い交流がある。そういうお話です。で、アニメのほうでは、二人は結婚してますけれども、「風立ちぬ」は、結婚に至らない。まさに婚約の後に死んでしまう。それで、真の婚約をを描く。真の婚約って言葉は、作中にも出てきます。これが私の中に昔からちょっと残ってたんですね。なんじゃこれ、というふうな感じで。
で、アニメ「風立ちぬ」のお話のほうでは、結婚します。で、それからあと、短い間、二人は、愛情の結晶のような、新婚生活を行って、いつのまにか、この奈穂子さんは夫にも告げずに、サナトリウムにまた一人帰っていく、去っていくわけです。そこで一人死ぬんですね。それを見送った堀越二郎の上司の奥さんが、きれいなところだけを、好きな人に全部見てもらって、去っていったのねというふうに言うわけです。だから、小説の「風立ちぬ」とはちょっと違いますけど、真の婚約っていうのを真の婚約プラス真の新婚というふうに置き換えれば、その延長として見れますね。これっていうのはなんだろうか。真の婚約とか、真の新婚っていうのは、純粋は婚約とか、純粋な新婚とか、そういうようなものでしょう。そういうふうなものっていうのは、時間が経てば、だんだな薄れてきたり、だんだん濁ってきたり、悪い方にはいかないにしても、変質してくる。違うものいなってくる。いい意味で違うものになる場合もあるだろうけど、結局、そういうものでしょう。そういう可能性が全くないんですね。で、可能性が全くないために、死んじゃうわけですよ。そういう話って「なんなのよ。」と思う。確かに、そういうのに、ロマンチックで憧れるって人はいるんだろうけど、私もロマンチックであることは重々認めますけど、なんか逃げてないか。
死んでっちゃうのに、逃げてくってのはないけど、それでもやっぱり逃げてないか。そういう思いってのが、昔からずっとあるし、その部分をいろんな意味で取り入れたアニメ「風立ちぬ」についてもあります。そこでね、こういうのを入れたって、なんなんだろうかって考えたときに、あのさっきの岡田斗司夫さんの「風立ちぬ」論ですね。
あのお嬢様の奈穂子さんと軽井沢で会って恋愛し、結核の彼女と結婚する。その前に、この堀越二郎は、最初あった時からお嬢様に一目ぼれしてずっと好きだった。それで久しぶりに軽井沢で再開する、というふうに普通読めます。中のセリフとか見ても、そういうような言葉を交わしているところもあるんですよね。でも、最初からちゃんと見てみると、さっき言ったように、女中のお絹さんも助けている。で、女中のお絹さんがお礼にきたときに、彼は後を追おうとしている。で、ずっとあとで、お嬢様から、あんときは、実はお絹は、結婚が決まってたんだと。それから結婚して、彼女は、一応幸せになってるらしい、今度二人目の子供が生まれるらしい、ということを聞いて、ああ幸せになってよかったですね、ってなことをそのお嬢様に堀越は言います。
でもですね、それを見送ったとき、彼は、お嬢様よりも、この女中のお絹に対する想い、感謝からの愛情あったんじゃないか。岡田斗司夫はそういうことを指摘している。私もそれは、言われるまで自覚しなかったけど、なるほどなと思いました。岡田斗司夫はですね、宮崎駿って人は、別に、そんなロマンチックな恋愛をして、彼女とか新妻を結核で死なせてるような人ではない。まあ、わかんないですけどね、若いときどんな恋愛したかは。全然わかんないですけど、少なくとも奥さんは、当時東映動画の、60年代日本の最大のアニメを作ってた製作所の同僚のアニメーターです。で、今でもジブリ以外は全てそうですけど、アニメーターっていうのは、全部ブラック企業です。で、東映動画は大きい会社だったけど、相当過酷なブラック企業でした。で、その中で相当大規模な労働争議がおきます。で、その労働争議の中で、宮崎駿にマルクス主義、その他を叩きこんだのが、今のジブリのコンビの高畑勲さん。そっちは東大出てますけどね。すごい労働争議がおこって、その労働組合がいわば会社と対抗するなかで、アニメを一つ作ってしまった。「太陽の王子 ホルスの大冒険」ですね。そういうふうな中で、一緒にいた人と結婚してます。まあ、職場結婚ですね。で、岡田斗司夫はですね、宮崎さんの結婚というのは、いわばお絹との結婚なんだ。そんな、超セレブのお嬢様を捕まえたとかではない。超セレブのお嬢様こそが似合う、ロマンチックな情熱恋愛とかではなく、一緒に生活をともにしてやっていけそうな人と、結婚したんだ。で、普通の夫婦としての幸せを掴んだんだ。それの相手ってのは、これは、奈穂子さんじゃなくて、お絹だろうといってます。これは鋭いなと私は、思いましたね。で、どうしてかっていうと、このお絹、相手は誰だか知りませんけど、見合い結婚かもしれませんけど、普通の平凡な結婚をして、子供は今二人目が生まれて、幸せになっている。いくらしい。で、あとここに出てくる女性としては、妹が出てきます。生意気そうな妹が出てきます。実際頭も良さそうで、自立心に富んでいて、戦争間際の時代に、女医さんを目指しています。
ちなみにあの頃ね、戦争直前から、戦時中っていうのは、女性の自立っていうのが、結構伸びた時代です。っていうか、さっき言った総力戦の時代。戦略爆撃とか総力戦の時代、20世紀っていうのは、大きな戦争があるたびに女性の権利は伸びていっています。アメリカのフェミニズムが大きく勝利したのは、戦争後です。南北戦争、一次大戦、二次大戦。なんでなのかっていうと、男がみんな戦場いっちゃいますから。昔だったら、銃後の妻とか、銃後の母っていうのは、子供たちを大事にして、残った人たちを大事にして、無事を祈ってればよかった。ところが総力戦になりますと、国民全体が、飛行機でも、鉄砲でも、みんなで作んなきゃないけません。で、男たちがいっちゃったら、労働者がいなくなります。女にも働いてもらわなきゃならない。そうすると、それまで女性解放運動やってた人たちは、あたし達が勝たせたんでしょっていう大義名分ができます。で、女性の選挙権とかいろんな権利が、戦争のために伸びていきます。日本もそうです。戦時中、戦争直前から戦時中まで、そういうふうな動きってのは、結構起こってます。実ったかどうかはいろいろありますけど。そこで、こういう妹が、自分は大学を出て女医さんになりたい。大学かな、医専?、医学専門学校、まあ、やっぱり、医科大学ってのもあったから、大学もあると思うんですけど、なかなかリアルです。
で、次に、もう一つここに加えたいのが、さっきも名前を出した、ライバルで親友である本庄季郎ですね。戦闘機づくりに燃えた堀越に対して、爆撃機、一式陸攻を作った本庄季郎、彼はどういう結婚をしているか、もちろん突っ込んでは描かれません。まだ、新入社員のところで、堀越は飛行機のことで頭がいっぱいです。お絹さんが訪ねてきて、「あれっ、あああ」って慌ててる、そんなときに本庄は突然結婚するんだというふうに言います。「今度ちょっと東京に帰る」「ああ、そうか」「嫁を貰うんだ」「え〜っ」ってなります。で、それ以上のことは言われません。だから、よく分かんないんだけど、情熱的恋愛はしてそうもない。じゃあ、何をしてるのかっていうと、わかんないですけど、見合い結婚か、紹介の結婚かそういうようなものっぽいです。淡々としてます。仕事に熱中するためには、家庭を引き受けてくれる嫁が必要なんだって、非常に醒めた結婚をしてる。そこで、これは矛盾だっていうふうに言います。矛盾で深刻に悩んでるふうもない。
ちなみに、ここで、私はまた横道にそれますけど、この矛盾てことばを、彼はそのとき二う三つ一種洒落的にいうんですけ。多分このとき、この本庄の頭にあった、あるいはそれを、なんでもないって感じで聞いている堀越の頭にあったのは、絶対矛盾の自己同一って言葉じゃないかと思います。なんなのかっていうと、そんなの分かるわけないじゃないですかってうのは、半分冗談ですけど、西田幾多郎哲学ですね。西田幾多郎の「善の研究」とか、そのへんの哲学のキーワードが「絶対矛盾の自己同一」です。で、当時の旧制高校生とか、そのへんってうのは、全員これを読みました。バイブルでした。
当時旧制高校生は超エリートです。それから東大法学部、東京大じゃない、東京帝国大学法学部を出た人に、もちろん、私が知ったときはおじいさんでしたけど、その方に「一高とか入るとあれですか、善の研究とか読んだんですか?」と聞くと、「読んだよか、2円だったよ」と。そういうことは本に書いてないから、「2円だったんですか」って驚きました。でも当時の2円の価値がよく分からないから、あれなんだけど。で、「やっぱり、感動したりしてたんですか」と聞くと、「全然わかんなかったよ」とおっしゃりました。それで「なんで読んだんですか」聞くと、「読まなきゃいけないんだよ、みんな読んでんだよ」ということでした。分かんなくても、みんな、分からないまま読んだ。今でもそうですけど。絶対矛盾の自己同一って言葉は、キーワードだから覚える。だから、そういうふうに、ふっと出す、そういう言葉ですね。今だったら、なんなんでしょうね。私なんかは、構造とか、差異とか、記号とか、ギャグにはしましたけど。理系のそういうような学生でも、わけわかんないながら読んでる。そういう言葉をここでふっと出したんだと思います。あえてこじつければ。
で、この本庄季郎という人はですね、お絹や、佳代、佳代はちょっと、アクティブなところあるけど、このお絹さんとか本庄季郎っていうのは、当時の日本の中の、マジョリティーの、みんなが期待する役割、生き方っていうのを、ほとんど疑問を持たず、そのまま頑張って生きてる人たちだと思います。女中さんだったら、帝大を出たエンジニアの奥さんっていうのは、あんまり望むものですかと、普通は思うでしょう。エンジニアで真面目なエリートであっても、エンジニアで嫁を貰うんだったら、普通に周りが推薦するいい嫁さんをもらうっていうのが普通でしょう。そういうことにほとんど疑問は持たない。ちょっと持ったとしても、まあ、矛盾だよってな形で、それは片づける。そのときもみんなが読んでて、みんながキーワードにしておかしくない、西田幾多郎の本から矛盾って言葉をチラッと取り出す。マルクス主義から弁証法とはいわない。弁証法も当時結構普及してと思うけど。そういう普通の人なんですね。
それに対して堀越って人は、ちょっと違うんじゃないのかな、というところが見えます。で、お嫁さんにする人っていうのは、特別な教養みたいなものは、必要とされません。生活のレベルではやっぱり、頭いいっていうか、賢い人のほうがいいに決まってますけれども、賢くなきゃ困りますけど、インテリである必要はまったくないし、かえってマイナスなんです。関東大震災のときに、お絹とまだ幼かったお嬢様の奈穂子さんを帝大生だった堀越は助ける。で、そのときに、この女中のお絹さんは、震災でまだわやわわ揺れているわけですから、ビビって当たり前ですけど、完全にビビりまくっちゃって、脱線した蒸気機関車が爆発する、爆発するっていうわけです。それに対して、堀越さんはね、東京帝国大学工学部のエンジニアですからね、「馬鹿なこと言っちゃいけない、蒸気機関車は爆発しません」っていうんです。お絹さんだけじゃなくて、他の普通の庶民も爆発するぞとか言ってるわけですね。
まあ、火はもう消えてるし、シューって蒸気が上がってるわけですから、爆発する可能性は少ないし、もっと他の危険を気にしたほうがいい。だから、あの感じでは、そのような基本の教養もない人なわけです。でも、まあ、当時の女として、料理や裁縫とかは、ちゃんとやれそう。そういう感じですね。そういう人たちの世界っていうのが、ここにあるわけです。それに対してですね、彼は結局、お絹さんに思いはあったのかもしれないけど、奈穂子さんを選ぶ。で、奈穂子さんと、ほんとにロマンチックを燃焼し尽くすような恋愛をして、結局奈穂子さんを死なせていっちゃうわけです。
私は2年ぐらい前から日常と、生活と非日常、順序はどうでもいいんですけど、非日常、日常、生活でもいいんですけど、この三つっていうのが、いつからか分離してしまったということについて考えています。非日常と日常が違うのは当たり前だけど、日常と生活ってのは、かつて、日常生活とひとまとまりに言われたものだった。それがいつの間にか、大体80年代あたりから分離が始まった。90年代の後半に宮台真司さんが、「終わりなき日常を生きろ」っていった。あのとき、終わりなき生活を生きろとも、終わりなき日常生活を生きろとも言わなかったです。私は当時から、それにひっかかってましたけどね。最近になってようやくなんかそれが見えてきた。
で、話しはじめると、これだけで大きな話になっちゃうんで、チラッといいますけ。生活苦って言葉はある。でも、生活楽って言葉はない。で、非日常って言葉はある。でも、非生活って言葉はない。その二つが分離する前夜である80年代のはじめに、コピーライターだった、糸井重里さんの名コピーとして「おいしい生活」ってのがあります。そろそろ日本の経済成長も、完成に近づいて、政府がこれからは、同じものでも、もっとおしゃれなもの、もっと楽しいもの、もっと変わったものとかを選んで、楽しい消費者生活に進んで行きましょうと推奨した、そういう時代です。
それまで生活っていうと、よくて充実しているとか、安定している。大体は生活苦ですから、生活は苦しいものです。お金無かったですからね。労働時間も長い。そんなときに、おいしい生活ってコピーを彼は言ったわけです。今だったら、それの意味ってのは、わかりにくくなってますけれども、それは、逆説だった。生活がおいしいわけないだろう、それをおいしい生活という。それまで、デパートでも、スーパーでも、何かを買うっていうのは、必要だから買うんです。少しでも安く、でも、もうそういう段階は過ぎた。僕たちもう豊かでしょ。だったら、パルコとかに行って、おんなじ食器でも、もっとも、おしゃれなものとか、買おうじゃないですか。もう生活は苦じゃないんですよ。逆にプラスで、おいしいかもしれないよと言ったわけです。
まあ、60年代に、イタリアのフェデリコ・フェリーニの映画に、「甘い生活」ってのがあります。生活が甘いわけないだろう。でも、当時のイタリアの中のセレブの人達が、まさに甘い生活を送っている。でも、その中で退廃が兆して、これ以上リッチで幸せな人はいないんじゃないかっていうのが、退屈の中で自殺しちゃったりする、そういう話です。
それも逆説だったんだけど、フェリーニから20年遅れて今度は日本の、少なくとも西武に買い物に行くような人たちのレベルにまで、おいしい生活ってことが言われるようになるわけです。ってことは、それまでは、生活は、楽しいものでななかった。
それから、日常っていうのが、生活って言葉にかわっていきます。終わりなき日常、あるいは、東日本大震災のあと、日常を取り戻そうってことが言われる。その場合の日常っていうのは、これは生活じゃないんですね。
どこが違うのかっていうと、日常っていうのは、これは消費の方です。で、生活は、生産の側面です。モノを食うでも、お酒を飲んだり、スイーツを食べたり、そっちのほうは楽しい。そっちが日常。必要最小限でちゃんと栄養バランスとりましょう、野菜も食べましょうっていうのは、楽しくなくて生活です。でも、食べるなら消費だろう…? 違います。自分の体を作っています。生産です。子育ても充実して楽しいこともいっぱいあるでしょうけど、大変なこといっぱいありますね。これは日常じゃなくて生活です。生産ですね。まさにね。こういうような自分の体を生産する、メンテする。また、次の世代を生産する。こういうのは、マルクスの資本論の中では、労働力再生産と呼応します。そっちが生活なんです。で、そうみますと、さっき女中のお絹さんと結婚して、堅実な日々を築いてく、これ生活です。妹の佳代ちゃんは、女性として自立していきたいと。だから、一生懸命お医者さんになって働こうとする。これも生活です。本庄が嫁をもらう。ちゃんと仕事をするためには、嫁をもらって家庭の方を固めてもらわなくちゃならない、これもまさに生活ですね。彼らは、みんな生活を固めようとしているわけです。堀越二郎もですね、お絹さんに感謝をしたときには、そういう気持ちもチラッとあったのかもしれない。しかし、ずっと、夢見続けている。飛行機は、カプローニ伯爵が、呪われた夢だっていう。これに、完全同意はしないけど、基本的にはそちらの側にいる。ずっと夢みてる。非日常のほうに飛ぼうとしているわけです。その結果として彼は、お絹さんじゃなくて、奈穂子さんを選んでしまう。で、奈穂子さんとの結婚というのは、これは、もういっときも二人は離れられないっていうことで、仕事しながら、手をつなぎ続けている。ロマンチックの極みですけれども、これでは、生活はできませんよ。彼はその中で、零戦を、零戦のもとになる飛行機を設計していくってお話になってます。そういうことが不可能だとは言わない。でも、どうみてもこれは生活って世界ではないですよね。どこまでも、非日常を彼女と二人で突っ切ろうという、そういう感じです。彼らの結婚の中では、生活の要素、昔の言葉で言えば糠味噌臭さってやつですね。それがあえて意図的に排除すらされてます。
で、堀辰雄はですね、さっきの真の婚約を描きたかった。「二人の人間が短い生涯で、どれだけお互いを幸福にさせることができるか、心と心と、身と身を暖め合いながら並んで立っているそんな若い男女の一組」というようなことを描こうとして、堀辰雄は「風立ちぬ」を書いた。で、実体験に基づいています。堀辰雄も、当時の婚約者も結核で死んでます。アニメ「風立ちぬ」では、そのへんは分かりませんけど、あんなにくっ付いてたら絶対にうつりますよ。堀辰雄も結核に侵されて、彼女から10年ぐらい遅れますけれども、血を吐いて、死んでいくわけです。ここには生活はない。やってる余地すらない。
戦略爆撃の時代が来て、戦闘機の時代は終わった。戦闘機乗りの騎士道、武士道の時代は終わった。戦略爆撃の時代が来て、核の時代が来た。で、先進国がみんな平和になります。で、そこで、どんどんどんどん豊かになった。人類が始まって以来、ここ、6、70年の経済成長っていうのは、人類始まった以来です。で、それで先進国は多かれ少なかれ格差もそれなりにあるけど、全体としては明らかに豊かになったと。豊かになると労働時間っていうのは少なくなります。今でも我々は労働から解放されてはいません。でも、昔に比べれば余暇の多さ、生活必要品以外に使える収入のパーセンテージは、はるかに大きくなっています。昔よりは、エンゲル係数が低くなってるわけですね。
しかし、今でも人々はみんな、ある意味奴隷なわけです。ギリシャ時代は奴隷ってのがいる。ギリシャの都市国家は、奴隷によって支えられてた。でも、あれは南北戦争の奴隷みたいに、牛や馬みたいに使われてたわけじゃないですよ。今の我々のほとんどは、ギリシャの都市国家では奴隷です。ギリシャの奴隷は、今でいえば賃労働者みたいなもんで、誰かに使われて、食べ物や給料をもらってた。そうじゃなくて、今だったらオーナー社長とか、地主とかで働かなくて、いわゆる利子とか家賃とかで食えた人が、ギリシャにおける自由民です。だから、プラトンとか、ソクラテスとか、ああいう人っていうのは、何にも働かなくて良かったんです。イソップ、アイソーポスっていうのは奴隷でした。でも、牛や馬みたいに使われてたわけじゃなくて、サラリーマンだった。でも、お話がうまくて、お金をいただいて自由民になったと言われてます。そういう意味で、今の我々は働かないではいられないから、そういう意味では奴隷です。
ただし、それでも個としての自由っていうのを幻想することはできる。なぜならば、四六時中働かなくても、よくなったから。自由に消費する余暇と、お金っていうのが多少だけどある。その部分では、我々は自由な個人なんです。でも、会社では、パワハラを受けなくてはなきゃなりません、多かれ少なかれ。いろんな、しがらみっていうのがあって、取引先との付き合いがあったり、上司の冠婚葬祭でたりしないといけません。拒む人が日本にいたら、相当勇気のある人です。会社員じゃやっていけないでしょう。だから、やっぱり奴隷なんだけど、でも、それでも、自由な時間が部分的にある。その部分的なところで、恋愛みたいなものも成り立っています。
だから、その恋愛とかいうのも、限界がありますね。自分の恋愛のために、会社との付き合いを完全にすっぽかす。あるいは結婚した後、お互いの家同士の付き合いとか、完全にすっぽかす。そういう人もいるかもしんないけど、そういう人はひたすら世間を狭くせざるを得ません。ある程度、豊かさとか安定を保ちたいんだったら、そこで個人は犠牲にしなきゃならない。
そうするとさっき言った、個と個が理想的に結びついてどうのという、堀辰雄の世界に出てくる真の婚約とか、真の新婚というものは、たちまち、そちらにのまれてしまいます。だから、あるとしてもほんのわずかな例ですね。それでも仕方ないし、それでも別にみなさん幸せな道はいろいろあるんだから構わないんだけど。
そういう風に見たときにですね、伊藤整という人の『近代日本における愛の虚偽』という論文があります。まあちょっと難解な論文でコアなところを見る、読み解くっていうのはちょっと難しいんですけど、でも非常に重要な論文ですね。『近代日本人の発想の諸形式』という非常に硬いタイトルで、岩波文庫に入ってます。薄い本でブックオフに行くと105円であるんですけど、呉智英先生が、師匠が昔からすごく重要視していた論文ですね。実際これはいろんな意味で凄いです。
好いた惚れたは、古代にも江戸時代にもありますけど、お互い同士の人格を尊重し、個として男女がお互いを理想化して恋い焦がれるロマンチックラブの思想っていうのを、日本人は近代になって西洋から輸入しました。西洋の文学から輸入したわけです。
しかしですね、西洋と日本は違う。西洋のそういう風なロマンチックラブが成立するには、ある特殊な背景っていうのがあった。西洋と日本では、その背景が違うってことが、どこまで理解されていたか。ある条件の下でしか、ああいうものは成立しないんだよ、フィクションとしてであれ、そういう背景がなければリアリティすらないんだよと、戦後、昭和20年代・30年代に洞察しなおしたのが伊藤整です。それを日本人は忘れて、俺たちは近代人なんだ、文明開化したんだ、作家、小説家なんていうのもいるんだ、だったら近代的な恋愛ができるんだ、そういうものを書くんだって風になっちゃった。でも、ちょっと待てってことを伊藤整という人は言った。伊藤整を嫌う文学者っていますね。自分たちが理想だと思ってたこと、自分たちがまじに文学だ、思想だと思ってやってたことについて、「お前らは足元を見たことがあるの?」って言われるから。
この人のには、「日本文壇史」っていうさらに膨大な仕事があります。明治維新になったころの、まだ戯作者がいたころから、初期の推理小説、樋口一葉、森鴎外、漱石というふうに大正のはじめまで書いて伊藤整は死んじゃったから中断した仕事です。これがですね、すごくある意味辛辣な「日本文学史」じゃなくて「文壇史」なんです。調べられる限り、作家の身長とかが書いてある。どんな顔をしていたかが書いてある。どれぐらいの収入だったかが書いてある。なかなか恐ろしいし、そっちに夢を見たい人にとっては結構辛辣な本ですね。この人の評論も基本的に似たような発想の中にあります。
で、そこで、この伊藤整さんの「近代日本における愛の虚偽」の中の、重要な部分、いろいろあるんですけど、今回の場合に重要な部分っていうのを読みます。「19世紀までのヨーロッパでは、娘を結婚させるとき、父母は娘の生涯を保障するにたる持参金を持たせ、経済的独立人として人妻にしてやった。すなわち愛が失われても人格が保障されるだけの支えを与えるべき責任が娘の婿にあった。日本では持参金つきの嫁は夫の非力の証明とされた。彼らにおいて、これはヨーロッパ人のことですけれども、ヨーロッパ人においては愛による結婚生活は十分なる経済条件という暗黙のしかし強靭な習慣の上にのみ存在していたのである。」と伊藤整は書いています。この一節は極めて重要だと思いますね。さらに、その前のところから読みましょう。「すなわち青年は、いくら強く女性を愛していても十分な収入なしに結婚するのは悪徳であるという安全な社会通念が存在している。」ヨーロッパにはですよ。「そういう者たちの愛を口実とし、前提とする結婚は、ヨーロッパでは妥当なものとみなされない。」これは、何を言ってるかっていうと、男女が対等だと口でいうのは簡単です。でも、それを現実に保障するにはどうすればいいのかということです。
例えば労働者と企業は、対等だと口で言うのは簡単です。どちらも契約をして、違反したら賠償を請求する。違反したら違反した方が責任を負う。労働者と企業は対等だ。でも現実には対等じゃないですね。企業は、資本を持ってるから労働者なんていくらでも使い捨てができる。それに対して労働者の方は企業を選べません。「この企業は嫌だ」って言って他に行ったら、給料もっと安いよ、とか、労働条件もっと悪いよ、ってことになる。それで、嫌なら、うちも雇えないよって言われて、路頭に迷う。だからマルクス主義的に言えば、労働者の側にある自由というのは飢え死にする自由だけであるということになります。どちらも独立した個人、人権があると憲法にちゃんと書いてありますけれども、奴隷と同じですね。
で、男女も平等であると憲法に書いてあります。で、文学やなにかも対等な恋愛は理想だと書いてあります。しかし対等なためには、人格の独立、個人の独立が必要です。それはどういうことか。普通の人は、しっかりしてることとか、馬鹿じゃなくて流されないことだと思っている。とんでもないです。どんなしっかりしていても、お金がなければ人間はどうしようもないわけです。
だから簡単に言って、旦那が浮気をした、旦那がDVをした、そこで離婚したい。個人の権利、個人の自由として当然離婚するってことはいいでしょう。その後どうするんですかっていうことです。シングルになって、シングルマザーになって働く。そういう選択をしている人もいっぱいいて、ものすごく苦しいでしょ。ものすごく苦しくても、それができるようになったっていうだけ、日本は豊かになったんですよ。先進国は。
かつてはDVなんてのは、問題にならなかった。それはDVがなかったわけじゃなくて、ひたすらあった。でも逃げたら飢え死にか、娼婦になるしかなかったから。だから、そんなことは問題にすることですらなかった。そういうことです。恋愛はまだ表面だけ付き合っていればいいから、さっき言った消費生活の豊かささえあれば、相手に奢ってあげられれば、それで十分です。結婚においても、対等な関係を持続させるにはどうすればいいかっていうと、両方が自分の個を支える土台を持たなきゃいけない。土台は当然経済的土台です。
例えば専門職で資格があったり、専門的技能があった者同士の付き合いならば、ある程度はそれでもできますね。それでもそういう人たちっていうのは企業に使われちゃうでしょう。クライアントの意図、意思っていうのがあったら、そっちの方に縛られちゃうでしょう。だったらお互いの意思を最優先するのは不可能です。やっぱり自由奴隷というか、雇う側をちょっと変えることのできる奴隷にしかすぎません。これは医者や弁護士すらそうじゃないかと思います。ただ医者でも開業医だったらちょっと違ってくる。それは資本を持ってるからですね。自分の病院っていう。だから医者は儲かる仕事ですけれども、開業医と勤務医では天と地ほどの差があるでしょ。
医者だってそれでも働かなきゃなんないからね。奴隷の中では一番マシかもしれないけど、奴隷ですね。仕事しなくていい人、でっかい土地を持っていてその収入でやっていける人、たまに働くけどそんなのは趣味の人、企業を持っていて、企業の経営っていうのは雇われ社長に任せていて自分はあがりだけをすってればいい人、もうちょっと小規模になってくると、まあ、そんなもの持ってないけど、持ってる株券やなにかの配当で一応食ってるという人、そういう人ですね。貯金でも昔は利子があったから食っていけたけど、今はさすがにゼロ金利だから貯金ではだめになりましたね。そういうのが近代的個人です。
そういうものを、娘が自分ではもってない。だから娘を嫁にやるときは、ここに書いてあるように、ブルジョワジーのお父さんだったら、娘にちゃんと財産を与えた。例えばこれだけの土地、日本だったら、いっぱい人が住んでいて、毎月何百万の収入が手に入る、マンション3件はお前にやるよと。
実際19世紀のイギリスとかヨーロッパだったら、娘にやる資産って何だったのか。持参金の種類っていうのは。それはもう当時のあいつらっていうのは莫大な財産がありますからね。何かっていうと、中央アメリカの大プランテーションの半分とか、イギリスだとインドの大綿農場の何ヘクタールとかそういうのですよ。彼らは世界を支配してますから。そういう時代は、だんだんだんだん植民地が独立したりして、少しずつせばまっていく。でもいろんな形で彼らは今でも持ってます。全員じゃないけど、向うのリッチな連中は。そうすると結婚しても旦那が何か言ってきても、対等になります。「私はいつでも独立する。持参金あるし。」そういうとこで、お互い好きになって、一緒に生活をしていくんだったら、これは対等な恋愛だし、対等な結婚ですよ。それがブルジョワジーというものです。
だから個人の自由、人権とか、男女の平等とか人格の尊重とかロマンチックラブとかいうのはブルジョワジーの作った思想なんです。ブルジョワジーというのは金持ちじゃないですよ。恒産を持ってる人ってことです。
1960年代の初めにアルジェリアがフランスから独立しようとしたときに、もうとっくに植民地という時代は終わってるから、手放せばいいんですよ。イギリス人は賢いからほとんど、あがりを独占してる。だから、インド独立?ああ、いいんじゃない?ビルマ独立?いいんじゃない?っていう感じでどんどん手放していきました。でも、フランスの場合は「アルジェリア絶対手放しちゃダメ!」っていう国民世論が結構あった。軍部とかが「そうだよ、そうだよ、俺たちもそう思うよ。」ってな感じで、フランスがかなりやばくなりました。軍人が力を持って、軍事独裁国家になる寸前までいったんです。「アルジェリア独立」っていうふうに政府が言うと、「いや、ダメ!」って。なんで、拘ったのか。カミュの小説でアルジェリア人たちが過酷な労働をしているところが描かれてますが、そのあがりで食ってたフランス人がいっぱいいたんです。貧乏な庶民じゃないですよ。でも、超セレブじゃなくても、中産階級の人達にいた。その人たちっていうのは、ある程度は若いうちは働くけど、40、50になったら、日本でいう楽隠居、あがりだけで優雅に暮らしたいねと思ってる。そうするとある程度儲けたら、稼いだ金っていうのはアルジェリアの、そういう農場とか、企業とかの債権を買う、株とかを買う。そういうことで食ってたんですよ。そこでアルジェリア独立ってことになっちゃったら、「パーじゃん!俺明日から働かなきゃなんないじゃん!我が家は没落じゃん!」ってなことになります。それで、みんな必死に抵抗したんです。そうすると歴史っていうのも分かってきますね。まあ時代の趨勢には逆らえず、アルジェリアは独立していきます。その辺をなんとかまとめたのがド・ゴール大統領ですね。
それはいいとして、そういうような持参金っていうのがないとロマンチックラブは成立しないんです。で、日本では、そこまでの文化っていうのはついに起こりませんでした。えっと、日本でも、ブルジョワジーはいました。そういう人たちは、ほんのわずかだけど、軽井沢とかそういうところにはいたわけですね。そこだけは近代だったんです。みんなそれくらいのお金があって自立した個人になってた。でも欧米に比べれば、官僚の護送船団でやってた人達が多いから、やっぱり国家に逆らえる、距離をおけるようなのは、いなかったに等しいでしょう。やろうとすると星新一のお父さんみたいに、いじめられてつぶされました。でも、それくらいのブルジョワジーはいた。『風立ちぬ』の中で、なかなかすごいのは、軽井沢のシーンですね。基本的にはこの、堀越二郎と奈穂子さんとの出会いと恋愛の進展っていうのが中心になりますけど、そうじゃない場面っていうのもあります。私は全体の中で個人的には、趣味的に非常に好きなのは、みんなで「会議は踊る」っていう歌を合唱するところですね。さっきちょっと名前を出しました、カストルプっていうドイツ人がその軽井沢に滞在してます。当時の軽井沢は、日本にいた外人たちもみんな行ったんです。日本の暑さ、白人には耐えられません。もともとあそこは、外人が開拓、開発した避暑地ですからね。で、えー、日本人の中でもセレブたちはいるわけです。だから外国語がわかる。外人との交流というのがそう珍しくもない。留学とかしたこともある。当時の日本人はほんの一握りです。その人たちが軽井沢に来ている。その人たちっていうのはみんな財産があって、個はあるわけですね。その中で、カストルプというのがいる。これを、町山智浩氏なんかは「リヒャルド・ゾルゲがモデルだ」と言っています。そういうこと言ってる人が、最近増えてきてます。産経新聞も、さっきのとは別の記事のところで「ゾルゲをモデルにした絵は外人が結構美化されていて」と、産経新聞らしいことを書いてます。あの、可能性はあります。リヒャルド・ゾルゲは、ドイツ系のロシア人ですね。ソ連のために動いたコミンテルンのスパイです。で、有名なゾルゲ事件っていうのがあって、戦争直前に逮捕されてます。尾崎秀実とか日本人の協力者とか、左翼系の協力者とか一網打尽にされて処刑されます。彼の生涯っていうのは非常に面白いんですけど、それっぽいところがある。堀越二郎にユンカース博士が政府と決裂したとか、ヒトラーの政権はならず者たちの集まりにすぎない。ドイツはそれを止めねばなんてことを言ってます。だから、いかにも反体制的です。その後、特高に追われて、軽井沢から自動車で去っていくなんていう場面もあります。顔もちょっと似ているような気もしますね。ただ、同じようなこというのも癪ですから、ちょっと別の見方をします。ゾルゲだったら、コミンテルンを代表する大スパイゾルゲだったら、左翼同志には、そうやっていったりしてもね、初めて会ったばかりのエンジニア、戦闘機エンジニアに対してね、「ヒトラーの政権はやばい」とか言っていいんでしょうかね。スパイとして甘くないですか。ヤバいかもしれないじゃないですか。通報されるかもしれないじゃないですか。しかもね、ゾルゲ自身はね、そんな甘い人じゃないです。ゾルゲはね、ナチス党員だったんです。もちろん偽装ですよ。ナチス党員で、ヒトラーのナチス政権を基本的に肯定し賛美する発言を公式にはし続けてます。で、ドイツ大使館の連中と非常に仲良くて、ドイツ大使館のスパイなんじゃないかって、思われていた節があります。でも逆で、ソ連のためにドイツ大使館の情報をはじから全部吸収してたんですね。だからちょっとあの人は、ゾルゲにしては甘くないか?という気がします。それになんか無事に逃げられたみたいですしね。
で、私としては、もっとマイナーだから、宮崎駿さんが意識するかどうかは知りませんけど、カール・レーヴィットの方がいいんじゃないかということを、他、誰も言わないから言っておきます。カール・レーヴィットは、やはりドイツ出身の人ですけれども、哲学者です。現象学を研究して、ハイデッガーやなんかと近いところにいた人です。でもハイデッガーのことは嫌いだったみたいですね。研究領域が重なっていて、ニーチェとかキルケゴールとか研究した第一人者ですけど、ハイデッガーを嫌ってた。ユダヤ系だったってことが大きいでしょうね。それで彼は、ドイツにいづらくなって、日本に来ます。東北帝国大学の教授になって、ドイツ語や哲学を教えてました。思想としては、リヒャルト・ゾルゲは、当然マルクス主義、共産主義ですけれども、レーヴィットは実存主義です。「軽井沢のここに来ればすべて忘れられる。」って言ったり、短く終えそうな堀越の恋愛みたいなものを、応援するようなことを言ったりするのは、マルクス主義者よりもニーチェやキエケゴールが好きな実存主義者のほうが似合うような気がするんです。軽井沢にいたかっていうといないですね。ただし、東北の軽井沢みたいな、高山外人避暑地っていうのがありまして、そこには、一人で行ってたみたいです。だから雰囲気としては違わないですね。日本にもだんだんいづらくなりました。戦争の直前に、彼はアメリカだかにさっと逃げちゃってます。そういう人もいて、その人っぽくもあるという気もするので言っときました。
で、さっきの「会議は踊る」です。彼が、軽井沢のホテルのロビーにあったピアノを叩いて、「会議は踊る」って曲を弾き始めます。それで彼自身陽気な声でそれを歌い始めます。そうすると、堀越二郎がドイツ語で、もちろん、カール・レーヴィッドも…そういうことにしちゃいますけど…カール・レーヴィッドもドイツ語で歌うわけですけど、堀越二郎もドイツ語でそれにあわします。で、奈穂子さんのお父さんも、それを見まして、他の日本人たちも、外国人たちもドイツ語で「会議は踊る」を、高らかに歌うところがあります。一種の陽気さがあって、私としては大好きな場面ですけどね。その中に外国人の女性が、セレブなんだけど、向こうのかわいい女中ってな、ふん装をして、ダンスを踊ります。これはどういうのか。「会議は踊る」の中の、「只一度だけ」って歌があるんですね。「会議は踊る」という当時の大名作映画の主題歌です。ナポレオンがエルバ島に流されたときのウィーン会議の混乱のさなかにおける、ウィーンの町娘と、町の美少女と、ロシア皇帝との、だた一晩の恋を描いたのが、「会議は踊る」という名作映画です。だから、人生で「只一度」なんですね。それを、その女の子が映画で歌う。大ヒットしました。映画も歌も。当時の日本のインテリは、英語以外で学ぶ外国語は、ドイツ語ですから、みんなドイツ語で歌えたらしいんですね。だから、あそこで、「おお、只一度だ〜」って感じで、堀越も含めてみんなで歌いだす。まさに、当時の日本のインテリの典型がみんないる。そういうふうなのが、そこで見えるわけです。でも、その歌は人生で「只一度」なんですね。軽井沢つまり、日本のわずかな近代、日本でわずかに個がある場所っていうのは、すごくやばいんだ。いつ消えちゃうかわかんないぐらい小さいんだよ。もう先はないかもしんないんだよ。という思いは、もちろんこもってるわけです。そのへんをみると、やっぱりこれは、ゾルゲよりも、実存主義者のカール・レーヴィッドのほうがいいんじゃないかって思う人は、私だけでしょうけど、私は勝手に思います。
面白いのはですね、その場面でお嬢さんの奈穂子さん、いないんですよ。お嬢さんの奈穂子さんがそこではいない。奈穂子さんのお父さんはいていっしょにドイツ語で歌ってる。これはなんでなのか。まあ、もちろん結核がちょっと悪くなったから、来なかったっていうところですけど、日本は、娘に持参金を与えて、娘を自立させるほど、豊かにはならなかった。その以前のところの豊かさと個がここに集まってる。それでみんなでドイツ語で、当時の世界的な名作の歌を歌っている。でも、奈穂子さんはそこには入れない。というふうに私はあえて、無理読みをしまして、この場面はすげえなと、思いました。
戦後とか今において、そういう、日本人でインテリだったら、結構みんな歌える外国語の歌ってあるんですかね。ビートルズですかね。私は、英語だめで歌えないけど、イエスタデーやレットイットビーがそれにあたりますかね。映画の主題歌とかでありますかね。オペラ座の怪人なんて結構ポピュラーかな、とか思うんだけどね。戦前の場合は、映画が基本的なインテリの娯楽でしたけど、洋画は、今よりはずっと少ないですからね。そういう歌があったんです。そういう、日本にも近代に近いものがあった。軽井沢だけにはあった。でも、それも限界があった、奈穂子さんがそこで一緒に歌うってとこまでは行かなかった。また将来っていうのも、なかった。将来、持参金が与えられれば、奈穂子さんと堀越二郎は対等な二人になれた。仮にどっちかが浮気するとか、なんとかっていうときには、制裁を加えることはできた。真の婚約と、真の結婚、真の新婚っていうのを、そっから先も続けることができた。でも、生活は糠味噌臭くなるじゃないの。なりません、絶対。なぜならば、そういうのは全部、女中や下男にやってもらえばいいからです。ヨーロッパの19世紀の小説で、恋愛の主人公になるヒーローやヒロインっていうのは、全部、自分では、そんなことしなくていい人たちなんです。でも、日本はそこまで豊ではないんですね。だからロマンチックラブの小説を成立させるには、どっちかが、あるいは両方が、さっさと死ななきゃならないわけです。そこですね。そういう限界の中で、非日常っていうものが、ロマンチックラブっていうのが成立します。
それ考えると、ここで宮崎駿さんが、描いたのは、日本の中で、戦前の日本の中で、かろうじて近代に近づいた時代と人たちです。でも、ヨーロッパの近代から比べると、まだまだ貧しくてロマンチックラブは、結核による、彼女の死で終わらなければならなかった時代です。いいとかとにそれに戻りたいと思う人はいないでしょうけど、でも、どんな時代でも、その時代の趣というのをアートにすることはできます。宮崎駿は、それをしたんじゃないか。
例えば印象に残る小道具ってのはそうですね、計算尺ですね。戦略爆撃から核ミサイルになったら、もはや計算尺では戦争はできません。エンジニアは、コンピュータを使わなくちゃならなくなります。最初は電気式計算機、やがて、コンピュータ。
サイバネティクスっていうのは、大砲の弾を相手にいかに正確に届かせるか、その計算ですね。普通の角度とか、距離だとひっ算でも、計算尺でもできす。
でも、一度やって外れた、これくらい外れたから、次はこう修正する。次はこれぐらい外れた。だったら、こう微調整する。結果をいちいち受け取りながら、何発目かには命中させる。これがフィードバックですが、これはコンピュータの発達を促します。計算すごい複雑になりますから。このフィードバックを理論化した、ウィーナーのサイバネティクスっていう思想は、いわゆる、複雑系とかそういうのに近いですね。だったら、もう計算尺じゃだめなわけです。堀越は計算尺の時代の天才なんです。
あと、硫黄マッチですね。マッチをする場面ってのは、結構ある。やたらみんな煙草を吸っている。喫煙防止のほうから文句がついたようですけど、それは文句つけてもしょうがない、これは、そういう時代をこそ描きたかった。今、世界で一番喫煙のパーセンテージが多いのは、北朝鮮だそうです。我々は煙草吸わなくてもいいぐらい豊かになったんですよ。幸せになったですよ。
他には、蒸気機関車、あるいは、隅田川を航行した、一区間一銭の一銭蒸気、っていうのが非常によく描かれていますね。
そういう時代なわけです。そして、そういう時代は宮崎駿の時代でもあるわけです。宮崎さんは、一人でアニメを作っちゃう人です。もちろん現実的には共同作業ですよ。でも、時間と力が無限にあれば彼は全部描いちゃうでしょう。そういう手仕事の人です。今はもっと組織的になってるし、CGもあるし、何もあるしと…いうふうになってきてます。その直前の職人の栄光の時代。それは、また、相手が結核で死ぬという限度で、ロマンティックラブがもり上がれる時代。また、爆撃機主流になる直前の、戦闘機のサムライと騎士の時代なんです。
そう考えると全部つながってこないでしょうか。それですね。私が「風立ちぬ」についてみたパースペクティブというのは。じゃあ、そろそろ時間もあんまり長すぎてもなんなんで、まとめに入りたいと思います。はじめに言いましたよう、珍説・奇説です。自分でも半分冗談のつもりです。ましてや、宮崎駿さん、絶対そういうことは考えてなかったと思うけど…。なんでカプローニ伯爵は、「国を滅ぼしたんだからな」というふうに、まるで零戦を開発した堀越二郎の責任であるかのように、いったのかということです。でも、徹底的に責めてはいませんね。君が、ボロボロだ、地獄だっていったのも無理ないよね。国を滅ぼしたんだからな。ただし、自業自得だよ、しょうがないよな。ってなニュアンスを私は感じました。どういうことか。これの無理読みというか、珍説・奇説の解釈とはどういうことか。
夢の中で零戦が飛んでいる。で、カプローニ伯爵は、それを見て、あれが君のゼロか、きれいなかっこいい飛行機を作ったなあと褒め称えはするわけです。しかし、堀越二郎は、「まあ、そうなんだけど、一騎も帰ってきませんでした」っていうわけです。その通りですね。冒頭で、カプローニ伯爵が最初に出たとき、彼の会社が作った爆撃機が出撃しているときに、半分も帰ってこないって言ってるわけです。これと対応してますね。カプローニの爆撃機は、半分弱は帰ってくるらしいんですよ。それに対して、零戦は、一騎も帰ってこない。
だから、カプローニは、多分この夢の中に出てきたカプローニ伯爵は、堀越二郎の夢や気持ちはとことん同業者として、分かってはいただろうけど、「国が勝つためだったら、爆撃機作るべきだったんじゃないかよ」そう言ってるんじゃないか。
でも、さっき言ったように、日本の相手はチャイナで、南京爆撃しても重慶爆撃してもあんまり効果ないんじゃないか。ドゥーエのいうような、それで戦争終わらせるってないんじゃないか。という見解もある。でも、ここで、日本軍が計画したけど、ついにできなかった兵器というのがあり、時々話題になります。
架空戦記っていうエンタメのジャンルがあって、もしこういうのが早く開発されてたら、あるいは、こういう歴史的な事象が起こっていたら、日本が見事に勝ったんじゃないかという夢の小説があります。マニアもいますね。そういうのに、よく出てくる兵器は、いくつかあるんですけど、そんなかの一つに「富嶽」ってのがあります。
超大型爆撃機「富嶽」。富嶽ってのは、世界遺産になった富士山ですね。富嶽三十六景の富嶽です。どういうのかというと、巨大な、飛行機で、両方の翼に、大型のプロペラが三つずつついてる。六発ですね。それで海を越える。本庄が作った爆撃機は、渡洋爆撃といって、東シナ海を越えるんですけど、これは、太平洋を越える。太平洋も越えて、ロスアンゼルスも越えて、アメリカ大陸を横断してニューヨークに爆弾の雨を降らせる。ニューヨーク空爆をやってそれから大西洋に逃げる。大西洋も渡る。で、ヨーロッパに行って、同盟国ナチスドイツに着陸して、生還する。そういう計画が、ほんとにあったんですよ。
戦争末期には、それは無理でも、大西洋渡んなくても、ニューヨークまでいったら、そこで、特攻してニューヨークを火の海にするんだ、ということになります。アメリカ本土爆撃って軍歌までできています。でも、現実には、「富嶽」は、設計、計画だけで全然進ます、全くできませんでした。夢に終わったわけですね。さっきの松本零士のコックピットシリーズの中に、「富嶽」が出てくる別の歴史、「富嶽のいたところ」っていうのがあります。日本の軍事オタ、戦争オタだったら誰もが知ってるエピソードです。
爆撃機をいろいろ作っていた先駆者であるカプローニ伯爵としては、日本の軍人に協力するエンジニアだったら、「富嶽」に全力を注いだほうが良かったんじゃないの。それで、ドゥーエさんが言ったように、ニューヨークを空爆すれば、アメリカに勝つ可能性も、もう少しは、あったんじゃないの。
カプローニが、アニメの中の夢の中に出てきたとしたら、そうしろとまでは言わなくても、チラッと思ったんじゃないですかね。
「君がそういうのが、あんまり好きじゃないの分かってるよと、ライバルの本庄君がやるような爆撃機も、あんまり好きじゃなかったんでしょ。だから、俺の作った爆撃機についても、君は複雑な顔してたよね、君は君の美学に従ったんだ、それで零戦っていう大傑作を作ったんだ、でも、君の美学に従うってことは、国を滅ぼすことだよと、君はそこまでエゴイスティックだったんだよ、芸術家として。」とうことですね。そう考えると、このセリフは、はじめて意外にいきてくるんじゃないか。
逆にいうと、そのあと来るようになる爆撃機の時代、核の時代、戦略爆撃の時代、大衆の時代であり、消費の時代、そういう時代に対する、ある種のアンチテーゼ、一つの時代からの極めて逆説的なメッセージみたいなものが、最後に受け取れるんじゃないでしょうか。
あんまりこういうことをいう人っていうのはいないですから、今日はこんなところで、終わらせていただきます。どうもみなさんありがとうございました。また、来月、この浅羽通明辻説法、ヤバい現在を語るっとういうのは、続きます。まだ、具体的な内容までは、決まってませんけど、基本はライブです。ライブに来ていただけると、助かるんです。もうちょっと、弾けてしゃべってるつもりです。じゃあ、またよろしくお願いします。(以上)

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講師プロフィール

浅羽通明(あさばみちあき)1959年、神奈川県生まれ。「みえない大学本舗」主催。著述業。81年早稲田大学法学部卒業。著書に『ニセ学生マニュアル』シリーズ三部作(徳間書店)、『天使の王国』『知のハルマゲドン』(小林よしのり氏との共著)『大学で何を学ぶか』『思想家志願』『天皇・反戦・日本』『昭和三十年代主義』(以上、幻冬舎)、『澁澤龍彦の時代』(青弓社)、『野望としての教養』(時事通信社)、『教養としてのロースクール小論文』(早稲田経営出版)、『ナショナリズム』『アナーキズム』(以上、ちくま新書)、『右翼と左翼』(幻冬舎新書)、『時間ループ物語論』(洋泉社)などがある。
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