立ち止まるための社会学1 「フクシマの正義」

(講義時間:約2時間17分)

講義内容

○講座内容(※本講義は2012年11月25日に収録されたものです。)

開沼博氏が「「フクシマ」論」で喝破した通り、フクシマの問題はフクシマとの単線的なつながりを超え、日本の戦後成長、あるいは近代化という大きな問題と複雑に結びついています。そして、その構造は、3.11以後も何も変わっていません。

本講座の教科書となる「フクシマの正義」は、3.11以後、開沼氏が一般向け媒体に発表してきた、評論、エッセー、ルポ、対談を改めて再構成したもので、「フクシマ」論の続編とも言える内容です。
がれきの処理、原発、再宗教化、デモの功罪等、「フクシマの正義」があぶり出した論点は、そのまま日本の難点へつながります。

本講座で、開沼氏はたった一つの「正解」は導きません。むしろ社会学の知見をもとに難点の一つ一つを解きほぐし、言論における多様性の回復を目指します。受講生は「いい具合に」頭をかき回されるでしょう。安易な「正解」を峻拒し、不安定な状態で立ち止まり、現実に向き合う先にしか「希望」はないと考える氏の立場ゆえです。先の衆院選挙で自民党が圧勝した今こそ、もう一度、氏の立場を重く受け止めるべきかもしれません。

本講座がフクシマから日本の未来を考える一助となることを願ってやみません。

○講義項目

1.激論が戦わされる「放射線1ミリシーベルトパーイヤー」論争。小林よしのり、副島隆彦、武田邦彦らの議論に見える「再宗教化」という現象について開沼博が解説する。(1分4秒〜)

2.先の選挙で自民党は圧勝した。開沼氏が予想した通り、現実はピクリとも変わらない。「原発は止まらない。」一貫して安易な希望を否定し続けた開沼博が、3.11以後の希望について語る。(26分30秒〜)

3.「社会を変えるには(小熊英二著)」で肯定された「デモのある社会」。しかし、小熊英二らデモに高揚した者たちが希望とする「「社会運動がある社会」がそれほど「いいもの」なのか。官邸前デモが下火になった今、開沼博があらためてデモについて問い直す。(46分45秒〜)

4.3.11以後爆発している社会を変えるブーム。しかし、そんな中、博覧強記の鬼才、浅羽通明は「日本人は何もせんほうがいい」という。はたして「社会を変える」はいいことなのか。この根源的な問いに開沼博が応える。(1時間12分45秒〜)

5.「社会を変えろ」と煽り立てる者がもてはやされ、そこに集う人々が感じている「社会が変わっていない感」がなぜ生まれるのか。社会学の知見をもとに開沼博が解説する。また、「変わっていない感が」がせり出す可能性が高い道州制の負を暴く。(1時間40分37秒〜)

6.すべての議論が、二項対立に回収され言論の多様性が失われる現代、言論に携わるものの社会的使命とは何なのか。安易な正解を峻拒し続ける開沼博が「知的に誠実である」とはどういうことなのかについて語る。(2時間00分15秒〜)

※インタビュー内容の全文書き起こしは、レジュメに掲載されております。

教材の紹介

○テキスト
(※教材の発送は、ご入金確認後2013年1月7日から開始します。)

著者のサイン入り『フクシマの正義』(幻冬舎)開沼博・著

○オリジナルレジュメ

☆開沼博氏が板書で書いた図式を論点ごとに清書し、それぞれの論点について開沼氏の詳細なコメントが付されています。

当レジュメを見ながら講義を聞いていただくことで、自然と論点が整理できるような構成となっております。

多様な論点について解説する長時間の講義ですが、レジュメがあれば講義の基本的な論旨を見失うことはありません。

☆巻末にはインタビューの全文書き起こしが掲載されております。

☆レジュメの構成

1.再宗教化論
2.ウルリッヒ・ベックのリスク社会論
3.希望論
4.デモ・社会運動論
5.社会を変える論
6.成長しない社会・地方論
7.インタビュー内容の全文書き起こし

ハイライト


開沼博講義ハイライト2 激論が戦わされる「放射線1ミリシーベルトパーイヤー」論争。小林よしのり、副島隆彦、武田邦彦らの議論に見える「再宗教化」というポスト近代の現象について開沼博が解説する。



開沼博講義ハイライト3 先の選挙で自民党は圧勝した。開沼氏が予想した通り、現実はピクリとも変わらない。「原発は止まらない。」一貫して安易な希望を否定し続けた開沼博が、3.11以後の希望について語る。



開沼博講義ハイライト4 「社会を変えるには(小熊英二著)」で肯定された「デモのある社会」。しかし、小熊英二らデモに高揚した者たちが希望とする「「社会運動がある社会」がそれほど「いいもの」なのか。官邸前デモが下火になった今、開沼博があらためてデモについて問い直す。



開沼博講義ハイライト5 3.11以後爆発している社会を変えるブーム。しかし、そんな中で、博覧強記の鬼才、浅羽通明は「日本人は何もせんほうがいい」という。はたして「社会変革」はいいことなのか。この根源的な問いを開沼博が解説する。



開沼博講義ハイライト6 「社会を変えろ」と煽り立てる者がもてはやされ、そこに集う人々が感じている「社会が変わっていない感」がなぜ生まれるのか。社会学の知見をもとに開沼博が解説し、道州制の負の部分
を暴く。



開沼博講義ハイライト7 すべての議論が、二項対立に回収され言論の多様性が失われる現代、言論に携わるものの社会的使命とは何なのか。安易な正解を峻拒し続ける開沼博が「知的に誠実である」とはどういうことなのかについて語る。



○「立ち止まるための社会学」講義録

(講義部分をおこしたものを、簡単にまとめたものです。)

★第1章 科学的な答えは一つにならない

原発に関する論争の状況を見ていると、一方に原発は「すごく安全だよ」という話をする人がおり、一方に「すごく危険だよ」いう話をする人がいます。

エネルギー問題については、原発推進派の人は、「原発がなくなったら、エネルギーがなくて危険だよ」という話をしますし、脱原発派の人は、「エネルギーは十分足りているから安全です」という話をします。

しかし、議論の対象が何にせよ、安全派と危険派の間にある亀裂は、はたから見ているとわけがわからないものかもしれません。

例えば、放射線の危険性の話題になると、一方は「もう、このままいったら子供が何千人と死んでしまう」みたいな話をします。他方は「科学的に見て、チェルノブイリでも子供への影響はほとんど見られませんから…」みたいな話をします。

原発の話だけではありません。TPP導入に関する議論も同様ですね。TPPを導入すれば日本の農業は全滅だという立場をとって、声高に反対を叫ぶ人もいれば、TPPしたところで、そこに問題はおこらないし、むしろもっと環境がよくなるんだという話をしだす人もいます。

正反対の意見を聞かされて、結局どちらが正しいのか、私たちには簡単には判断がつきません。ヒステリックになっている、おじちゃん、おばちゃんを見て、結局は「ひくわーその話。もうどうでもいいわ…」ってなっていってしまうわけです。

どうしてこのような状況になってしまうのでしょうか。

では、まず、「声高に正義を叫ぶ人」の主張や態度をもう少し詳しくみてみましょう。

原発問題にせよ、TPP問題にせよ、主張する人はそれぞれの立場に複雑な「教義」があります。

あえて、宗教的な「教義」という言葉を用いたのは、乱立する多様な正義が繰り広げる論争は、傍から見ていると「宗教的な論争」に見えるからです。

そして、「教義」の中には、宗教の悪い部分であるカルト的なモノも含まれています。

対立する「教義」の中身ですが、一方にあるのは陰謀論的要素であり、もう一方にあるのは救済論的要素です。

つまり、「政府やマスコミは情報操作と隠蔽ばかり」「あいつらはとんでもない思想・組織をバックにもっている」という話と、「俺の言うことを知っていれば救われるぞ」という話です。

しかし、当事者たちは自分たちがすごく科学的な話をしていると主張します。もしくは科学的な話をしていると思い込んでいます。私たちの今の社会は、科学的合理性で成り立っているという建前があり、科学的合理性が議論の正当性を獲得する上で、つまり自分が正義であると主張する際に、重要になるからです。

では、なんで科学的合理性を主張するもの同士の議論が、宗教論争のようになってしまうのでしょうか。

宗教と科学を対峙させましたが、マックスウェーバーという社会学者は、彼の基本的なスタンスとして「近代というのは宗教的なものが科学によって塗り替えられていくプロセスである」という話をしています。まず大前提としてこの話を押さえてください。

どういうことかというと、前近代的な社会では、例えば、疫病が流行したときに、これは何とか神様のたたりであるという話をしたり、あのとき、こういう悪い行いをしたから、世がこのようになってしまったみたいな話をしたりするわけです。山火事がおこったら、これはあの山で、こんな、とんでもない悪い気の流れがあったせいだと解釈していたわけです。

つまり、宗教的な解釈のもとで、ものごとが回っていった。

ところが近代に入ってくると、これは塗り替えられていくわけですね。

病気が流行したら、これこれこういう病原菌があって、それが、こういう疫学的な理由によって広まった、というような言い変えがなされていきます。山火事がおこったら、これはこういう自然現象として火種ができて、これこれこういう経緯で山が乾燥しているから、みたいな説明がなされます。

つまり、近代的合理性をもった解釈をしていくわけです。

これが、マックスウェーバーのいっている大きな議論の枠組みです。

それで、今、何が起こっているかというと、「科学ってほんとに正しいのか」という疑問が生じているわけです。

どういうことかというと、科学的な合理性というのは、論理を積み重ねていった先には一つの答えがあるということでした。だから一つの答え、あるいは一つの正義があるというのが、科学についての基本的な認識でした。

宗教的な答えでしたら、「仏様のなんとかのせいです」という話になるのか、「キリスト教の聖書に書いてあるこの話が現実になりました」になるのかはわかりませんが、ある事象にたいして、複数の解釈が可能だったわけですね。

ところが、科学というのはそういうものではないと。「一つの正しい答えがあるんだ」ということが、科学の正当性を保証していたわけです。

ところが、肝心なここが崩れてきたんです。これが科学の正しさが疑わしくなった原因ですが、なせ、そうなってしまったのでしょうか。

それは、科学を追及していって、その中で私たちは非常に便利になったし安定した社会を迎えることができたわけだけれども、このままさらに科学を追及していって本当に大丈夫かという疑問がでてきたからです。

例えば、原発の話をみてみましょう。「科学的な合理性を煎じ詰めましたと、それで事故を起こす確率も0.00何パーセントです。リスク工学のリスク計算によれば…」という話をさんざんしていたわけですね。

ところが0.00何パーセントのリスクが現実のものになってしまった。起こってみたら、ほとんどの人が予期していないような大災害となってしまった。

他にも、サブプライムローンというのがまさにそのような話です。

詳しくは話しませんけれども、やはり科学的な合理性を煎じ詰めていった中で、金融のリスクというものを皆で回避し共有していこうとした結果、日本でもゼロ年代以降、金融の規制緩和が進み、デリバティブ商品などのマーケットも大きくなっていった。

本来は事故とは関係ない、むしろリスクをヘッジする手段としての金融技術であったはずです。

しかし、その科学的技術のせいで金融のリスクが一国のみならず世界的にひろがって、果ては、途上国とかですね、弱い社会の脆弱な部分が被害をうけるという状況ができてしまったわけですね。

このようにですね、科学的なものを追及していった先にあったものがどうやら怪しいということがわかってきた。

こういう状況の中で、科学的な正しい一つの答えとか正義というのが定めきれないような世界になってきているということです。

その結果、多様な正義や解釈が乱立するようになります。

そして、多様な正義が乱立する中で人々が議論して社会を再構築していくための枠組みというのは、宗教的な複数の解釈で世が回っていた、前近代的な枠組みに一周回って、戻っているように見えるわけです。

近代の後に(ポストモダンという人もいますし、ポスト近代とか後期近代という方もいますけど)前近代的な、宗教的なものが再びせり出してきているということです。

そのため、宗教論争がそうであるように、社会問題について議論しようとすれば、先ほどの「安全派」と「危険派」のごとく、分断と断絶の泥沼の中に入り込んでいってしまいます。

また、信心深い宗教者の議論に付き合うのが、一般の人にとってきついように、「安全派」と「危険派」の議論に日常的に普段から付き合うのは、きつくなります。

だから、伊勢参り的に「一生に一度、旅行がてらお伊勢さんいきますよ」的ノリで、議論やデモに参加するのは「超楽しい」と思うけれども、ふと我に振り返ったときに、「で?」と思うわけです。「議論の断絶が深まるだけじゃん、社会をどうするという話に全然つながってないじゃん」と。

そして、社会問題に関わる議論から人がどんどん引いていってしまいます。先ほどお話した通り、「ひくわーその話。もうどうでもいいわ…」って感じですね。

そうすると、救済論型とか、陰謀論型の議論が横行して、ますます議論がまとまらないという悪循環に陥ります。

ここであえて補足しますが、こういう二項対立的な、二元論的な陰謀論と救済論の議論の枠組みって全く無駄なのでしょうか。私はそうではないと思います。正確にいうとそうでは「無かった」と思います。

陰謀論型、救済論型の話で社会がうまく再編する時代というのもあったと思うんですね。

それは、55年体制下の時代、冷戦下でイデオロギー闘争が繰り広げられた時代です。

例えば自民党と社会党の議論の構造っていうのが、二元論的な議論の枠組みなんですね。

1950年ぐらいからはじまった日本の高度経済成長期、東京オリンピックもやって道路も整備されて、太平洋ベルトでは、たくさん工業製品を生産して、世界の一等国になったよと。

非常にうまく行っているように見えました。しかし、こういう状況で70年代に田中角栄は言うわけです。

「でも、地方いくとひどいよ、まだ江戸時代みたいな風景残っているところもあるよ、一体どうするんだ。」と。日本列島改造論ですね。

これは、「このままじゃ、日本がそういう地方の弱い部分からどんどんつぶれていってしまい、とんでもないことになるぞ」っていう終末論であり、「俺のいうことを聞いていたらみんな救われるから」っていう救済論なんです。

こういう議論というのがうまく働いた、それによって日本が作られてきた部分というのがあると思うんです。だからこれが必ずしも悪いという風にいっているわけではないです。

社会党が、「このまま自民党が、経済成長と中央集権をごり押ししたらもうだめですよと、社会党が、勝っちゃいますよ」と脅す。
そしたら、自民党も仕方なく地方分権政策とかいわゆる日本型福祉と呼ばれる福祉政策、を取り入れていった。

企業や家族の生産の余剰部分を福祉に回していくという話ですね。

こういうのが、できていった時代というのもあるから、二項対立、二元論的な議論の枠組みが、完全にだめだという話ではないわけです。

しかし、話を元に戻すと、どうやら原発の話をはじめ、現代社会が抱える問題は、二項対立的な論じ方の枠組みをしても、前に進まないというレベルに来ています。

では、宗教的なものがせり出している現代の時代状況について、さらに理解を深めるため、もう一人社会学者を紹介して、別の角度から論じてみたいと思います。

ウルリッヒベックという人です。

ウルリッヒベックという人は、ドイツの脱原発運動のブレーンとして活躍しています。現代社会学のスターとも呼ばれている人です。

彼が提示しているリスク社会論という話は、現代社会学者の中では非常に大きな議論です。
80年代、それこそチェルノブイリ事故あたりからから彼がさかんにいっていたことです。

リスク社会論を説明する前に改めて前提として押さえておいていただきたいのですが、今まで述べてきたように、一つの答えや正義が定めきれない状況がある背景には、計算可能性に覆われていた社会が、計算不可能性に覆われてきているという変化があります。

先ほども申し上げました通り、合理的に計算していった先に豊かな社会とか、いい社会があると思っていたらそうじゃないんじゃないかということですね。

それを踏まえて、ベックのリスク社会論についてですが、ベックが提案する重要な歴史観の枠組みに近代の第1フェーズと近代の第2フェーズというものがあります。

近代の第一フェーズとは、先ほどのマックスウェーバーの話でいえば、宗教的なものが科学によって塗り替えられていった時代です。


例えば飢饉などが発生して食べ物がなくなってしまうと、人々は、では食料生産はこのような形で恒常化して缶詰を作りましょうとか、農薬を作りましょうとか、肥料をつくりましょうとか、いろいろやるわけですね。

これって自然が人間にもたらすリスク、自然のリスクを人間が叩き潰していくという作法なんです。つまり、人間が自然を「叩いていく」というのが近代の第一フェーズです。

人間が自然を叩いていく中で、近代社会は発展してきたし、みんなが、ものに溢れているきれいな環境の中で安心して生活できるようになりました。

どうやら先進国では、これは結構もう極まってしまったという感じですね。どうやら「自然のリスク」っていうのは、ほとんどなくなってきたわけです。

しかし、リスクがなくなったわけではありません。例えば、食べ物の中に入ってきてしまった「何か」によって、思いかけないとんでもないことがおこる。ということがあります。

例えば、BSEですよね。動物を定期的に合理的に作っていくという思いで、肉骨粉という動物性の飼料を牛に与えた結果、その牛を食べた人が30年以内にとんでもない病気になる可能性がでてきた。

非常に気持ちの悪いものです。なんか放射線の被害とすごく似ていますね…。

これを「人工のリスク」と仮にいっておきましょう。

「人工のリスク」って何かっていうと、人間が自然を制御しに向かった先で、自然は制御できたけれども、人間自体が新たにリスクを作っちゃったという話なんです。

「自然のリスク」を消していった先に、「人工のリスク」というのが出てきたということです。

この「人工のリスク」が、今度人間を叩いていくと。これが近代の第2フェーズです。

それで、今の時代っていうのはまさにこの中に来ているんじゃないのか、というのが、ベックがいっていることです。ベックの細かい研究している方からすると、あらい話になってしまいますけれども…。

そして計算可能性と計算不可能性は、この近代の第1フェーズと近代の第2フェーズにそれぞれ対応します。

こういう時代背景の中で、やっぱり科学というものが、もっといえば計算可能性というのが無効になっていきました。

「1たす1が2である、みんな納得できるよね、そうだよね」って言える時代から「いや1たす1って2なのかな、そうじゃないっていう人もいるし、そうだっていう人もいるし、お互いが科学的合理性に自分は立っていると強弁しているし…。よくわかんないから、これ以上この話に関わるのは、やめてしまおう」という時代に入ってきたということです。

以上、述べてきたとおり、科学が無効となり、宗教的なものが再びせり出してきている時代状況は、再宗教化と呼ばれます。

我々は、否応なくこの状況を引き受けていかなければ、ならないのですが、ではどのように生きていけばよいのかというのが次の講義です。

★第2章 希望と絶望はループする

再宗教化される社会が、どういう社会であるかという話をしました。それでは、これから日本はどうすべきか、という希望の話をしたいと思います。

とはいえ、答えはいつの時代も簡単にはでません。社会を変えるには、「やっぱ革命だよね」という話をしてきた時代もありましたが、どうやらそうじゃならしいということはわかっています。

それにしても、さっき述べた陰謀論とか救済論のような形で次から次に様々な希望が出てきますね。

経済成長神話とか、あるいは科学技術神話が希望につながることに対する様々な立場があり、それぞれが、それぞれの希望を語ります。

自分たちのいうことをちゃんと信じて、敵をたたき潰していけば、こんな形で救済されて、バラ色の未来が待っているという話です。

例えば、原発が無い社会、デモがある社会、あるいはTPPがある社会、他にはノマドとう働き方がある社会、などなど。

しかしですね、当たり前ですが、どんな希望にも功罪があるわけです。私は原発維持派と立場は異なりますが、原発なくなったらなくなったで、それなりの問題は起こってくるわけです。

TPPやったら、そこに希望があると書かれる方もいますけど、それなりに問題は起こってくるし、ノマドだってネズミ講しちゃうわけです。みんなじゃないですけれど…。

こういう希望の一方にある、見えない功罪があるにも拘わらず、安直な希望に向かっちゃう構造が今あるんじゃないかなと思います。

それで、なんで希望に向かっちゃうかというと、価値観や選択肢の多様性に耐えられない不安というのが、あるわけです。これって重要だけれどもあまり意識化されていないところです。

社会が混乱したとき、それこそ宗教なんかが流行るときは、社会の多様性が一気に広がるわけですね。多様性っていうのは社会を流動的に変えていくポジティブなものです。

しかし、多くの人は不安になり、一つの答えにしがみつきたくなってしまいます。その中で神話がせり出してくる。そして神話の先に希望があると信じこむ。

現代だけの問題ではありません。例えば、日本の戦後復興期にも多様な選択肢がありました。

アメリカ側につく一方で、ソ連側につくのかもしれないという話もありました。また、アメリカは当初、日本がこれから再軍備化しないように飛行機を作らせないとか、電力もろくに作らせない政策を1950年ぐらいまでとっていた一方、50年ぐらいからいきなり再軍備化をさせるために、自衛隊を創設しにいくような形もあったわけです。

国際社会における立ち位置で日本は揺れ動いていた。

そして、このように、多様性が一気に出てきたときに、日本人は経済成長神話に希望をみいだします。1955年に原子力基本法ができますけれども、原発も作ろうと。

ただ、多様性に耐えられない中で出てくる希望って、ほんとはすごく儚いものなんです。
少なくとも経済成長神話は50年ぐらいにわたって、日本社会を動かしてきたわけだし、今もこれで動いていると思いますから、希望のフォーマットとして全然無効ではないとも思いますけど。

これ戦後の話ですけれども、戦前がなんだったのかといえば、天皇制神話とかアジアに向けて進出してく大日本帝国という神話だったりもするわけですね。もうちょっと生々しい神話もそこにはあったのかもしれません。

じゃあ戦前、戦後ときて今、なんなのという大きな議論の枠組みがあります。

例えば原発の話にしぼれば、自然エネルギーの時代、ポスト資本主義の時代、みたいなことをいう方も多いと思います。

ただ、これって、70年代からずっと言われ続けてきたことなんですね。

原発の問題は70年代からある問題で新しい社会問題ではないんです。今さんざん話題になっている「税と社会保障の一体改革」の俎上にある社会保障や年金の問題、地方の問題もそうです。

それらが今、先鋭化してきて、いよいよどうにかしないとだめだね、という話になってきただけです、

そこで、いま、もたらされている処方箋が、脱資本主義とかエコロジーいう神話ですが、これは、今言った通り70年代からずっと言われてきたことです。

しかしですね、希望のフォーマットとして40年間使われてきたけれども、実現したかというとしてないわけですよね。

例えば、リーマンショックのときだってみんな散々これをいっていたわけです。あのときの書店の並びとか今見たら、すごく恥ずかしくて、「脱資本主義の時代がどうとか、リーマンショック後の新しい社会がこうとか」散々好き放題、みなさん書いていました。

しかし、金融は今でも元気だし、あのとき、アメリカがゴリ押しして、日本やEUが、その流れにのみ込まれていくという構造は、むしろ強まっているというふうに見ることもできるかもしれません。

このフォーマットにのりたい人はのればいいけど、実現可能な枠組みとは思えないし、安直に神話を入れ替えただけでは、何も問題が解決しないというのが私の考えです。

それで、引き続きどうするかということなんですが、原発の話を続けると、一方に市場のことばで希望を語る立場があり、もう一方には脱資本とかエコロジーがそうですけど、政治のことばで希望を語る立場があるんですね。

ここでいう政治というのは、ちょっと難しいですが、少数者とか小さな価値観に注目していこうというものです。

市場のことばを重視する立場は、大多数の利益をみていくべきだし、大きな価値をとっていこうと、いう動きだと思っています。

それで、ここの対立構造というのは、ずっと繰り返されてきたし、今もその構造は再生産されています。

それで、結局どっちが実現可能かというと、市場のほうなんですね。長期的にみてもこっちが人気を博していきます。

社会が転換を求めているときは、一時的に政治型の言説で社会が稼働される部分もあります。

民主党が政権とったときもそうだし、もっとさかのぼれば、土井たかこさんが元気になった80年代末とかもそうかもしれません。

しかし、基本的には市場を重視する立場が勝ちます。

例えば市場型のことばをしゃべっている人って、橋下徹さんが一番典型的です。

橋下さん型の主張というのは、「労組というところに専従職員がいて、実はこんな無駄があるから大多数にとって不合理だよね、また、これからは経営者感覚で、行政も利益をちゃんと積んでいくために、先行投資もしなければならないね」みたいな話です。

ある種、経営者的な価値観を打ち出すわけですね。以前これを小泉さんがやって、かなり熱狂的な支持をうけました。

一方、少数者とか小さな価値観を標榜する政治の側に立つ人たちは、学者とか知識人、メディアが典型例です。

政治型の主張をする人は常にいますが、こちら側の議論というのは、結局、市場型の主張に潰されていくような状況があります。

しかし、市場の側では人を切ろうという話をするから、倫理的な正しさを確保できない部分はあるんです。いわゆるPC問題、政治的正当性、ポリティカルコレクトネスの問題ですね。

だから、政治的正当性がありそうな議論は政治を重視する側です。けれでも、社会は正しさだけでは成り立ちません。そのため、結局多くの人が、政治側の議論にのれないような状況があらわれてしまうというのが、実際のところです。
それで、どうすべきか、という話に戻って参ります。市場側と政治側の双方の断絶が深まるだけでは、社会はよく変わっていきません。

私は、市場側と政治側の議論が越境されるべきだと、つながれるべきだと思っています。
少数者とか小さな価値観を、どうやって経営者型の議論につなげていくかが大切だと思うんです。

もう少し具体的なフェーズに落としこんで話をしてみます。

社民党が原発なくしたいと、そして多くの住民もそういう意見をもっている、というのであれば、あいつが悪いんだとう話をしていてもダメです。

市場の人は、「へ~っ、でもそれだと儲からないじゃん」といって終わっちゃうんですね。

なぜなら、繰り返しますが、発言権は市場のほうにあるからです。

だから例えば、政治の側の人は、市場の側の人がのれる枠組みをマーケットの言葉で語ればいいんですね。

例えば、自分の家に太陽パネルを敷き詰めたら、月5万円利益がでるよ、みたいな話をすると。あくまで例えです。それができるかどうかは、僕は自然エネルギーの専門家でないのでわからないですが。

「500万円ぐらいあればパネルが敷けます。毎月5万円利益が上がるので年間60万円です。不動産投資の年利の考え方でいったら、10%超えてきますよ。」

といわれると、10%超えてくる不動産投資物件ってなかなかないので、「あっこれは全然投資できるじゃん」ということで、多くの人がのってこれるわけです。

例えば、福島瑞穂さんが市場主義的な言葉を身に着けて、「変なよくわからないアパートに投資するより、自分のうちにちゃんと投資して利益を出していったほうが、あんた儲かるのよ。」みたいな話ができれば、超強いわけです。

それが、現状では、「こんな危険なもの許されない」みたいな政治的には正当な学級委員長型の話をずっとされています。しかし、結局これでは、ことが動きません。

デモについても同じですね。20万人集まったとか、10万人集まったという話をずっとしていても仕方ないんです。

例えば20万人集まったなら「一人1,000円ずつ集めようと、そしたら、2億になる、その2億を自分たちの言っていることを実現してくれる政治家に毎週もっていこうよ」という仕組みを作ればいいわけですよね。

それをせずに、「ゲンパツイラナイ」とか、「電力は実は足りている」という。確かにそうかもしれませんが、ポリティカルコレクトなだけの話をしていても誰も聞いてくれません。

もうちょっと経営者型のマネジメントをしていく必要があるというのが、ここでの、大きな枠組みでした。市場側と政治側の議論が越境されるべきだと、つながれるべきだというのはこういうことです。

こういう議論は、原発問題以外の他の分野においてはですね、やっている人は非常に多いと思います。

社会企業とかNPOとかいっちゃうと、他の人が既に議論しているので詳しくはいいませんけれども。今更感がありますよね。

以上、希望と絶望がループする再宗教化された社会で日本はどうすべきかとについて論じてきました。

まとめるとですね、多様な価値観が乱立する社会では、立場の異なるものどうしが、自らの考えが唯一・最上のものであると信じて、救済論や陰謀論で罵りあっているだけでは断絶が深まるだけです。

また、多様性の中で生まれた不安を一気にすべて吸収してくれそうな神話を声高に叫んでもだめです。

皆を一つの方向に向かわせて、誰をも安定的かつ持続的に救ってくれる単一的な神話や希望など存在しないからです。

私たちがすべきことは、政治側が市場側を取り込むように、相手の議論の枠組みを使って「敵を味方に変える」論理を地道に紡いていくことだと思います。

★第3章 デモや社会運動で日本は変わらない

「デモのある社会」に希望があるという語りがはやっていました。

しかし、メディアに、ある種消費されてしまって、主導者の小熊英二さんの「社会を変えるには」が5万部売れたけど、官邸前デモにくる人が2千人なっちゃったという残念な状況があります。

彼が、かわいそうだなと思いつつ、デモや社会運動について論じてみたいと思います。

社会学では、新しい社会運動論という話があります。社会学をやっている人なら、学部生でも知っている話なので、深くは言いませんが、社会運動には二つあるということです。

一つは、古い形の社会運動で、ざっくりいうと、マルクス主義に基づいたものです。

マルクス主義的な話では、階級の話が、問題になります。国内には富めるものと貧しき者がいる、国際的な階級もあるという話です。

そして、社会の格差が原因で、戦争が起こったりするということが言われます。

だから、古い社会運動の基本的なオペレーションシステムは、労働運動とか学生運動によって、資本家の側に社会の変革を迫っていこうという形になります。

今でも週刊金曜日的な議論の中では、やっぱり、反貧困とか、平和ということが非常に大きなテーマになってくるし、この枠組みで議論する人もまだ多いわけです。

ところが、70年代から階級という枠組みでは見られないものを、どう問うていくかというところで、新しい社会運動と呼ばれるものが出てきました。

例えばジェンダーの問題は、貧乏か金持ちかの枠組みの中では、とらえることができません。だから、フェミニズムとかが出てきます。

あるいは、セクシャルマイノリティー、ゲイとかの話もそうです。

他には、環境とか、エコロジーの話もそうですね。経済成長して、貧しさとか戦争をなくそうと頑張ってきたけれども、多分それだけじゃ、ダメな問題が出てくるねと。
ちなみに、水俣病が社会問題として認められたのは、60年代の末です。

日本にも被差別部落の差別の問題がありますが、アメリカの話をすれば、昔から明るみにされてきた人種差別の話ですね。

それで、問う枠組みがどうかわったかというと、いろいろ言い方がありますが、東か西かとか右か左かという主義の話ではなく、「上」か「下」か、とか、「内」か「外」かみたいな、議論に入ってくるわけですね。

「上」か「下」か、というのは、最近だと世代の問題ですね。

「内」か「外」か、という話は、システムの内側に入っているか、外側に入っているかということなのですが、例えば、女性の問題です。

「社会について考えようよ」って集会開いたら、昔は男社会だから、やってくるのは全員成人男性だけだったりするわけですね。

そうなると、女性が考えている問題は、社会問題から排除されてしまいます。

だから、システムの「外」にいる人が、どう考えるかについて議論する必要があるわけです。

こういうことが、70年代ぐらいから社会学で議論されてきたことです。

新しい社会運動が、始まってきたといわれて約40年ですが、今述べてきたエコとかジェンダーの問題ってすごいリアルですよね。

逆に、古い社会運動の階級の枠組みは、あまりリアリティーないですよね。

以上が、新しい社会運動に関する簡単な説明です。

では、脱原発デモは新しい社会運動のどこに位置づけられるかというと、エコロジ―のところですね。

ちなみに、小熊英二さんはじめ、学者や知識人の方で、脱原発デモを肯定している方は、脱原発デモだけに、興味があるわけではありません。総論として、まず新しい社会運動を肯定し、その流れで新しい社会運動の一つである脱原発デモを肯定しているわけです。

ゲイの方やレズビアンの方が着飾って、音楽鳴らしてパレードする動きというのは90年代末からあったことです。ロスジェネっていう世代間闘争をやっていた方も昔からいます。

脱原発デモも、これらのデモと同列で、評価されているわけです。

だから、脱原発だけに興味があってデモに参加した人と、新しい社会運動を肯定せんがために、脱原発デモに参加した小熊英二さんのような人とでは、少し立場が異なります。

では、この新しい社会運動を肯定する方たちの立場を基本的に認めたうえで、デモの功罪を見て行きましょう。

まず、功罪の功ですね。

ちょっと、たとえ話をしますが、僕はシステムのプログラミングなどを手掛けるいわゆるIT会社で、システムインテグレータとして働いていました。

勤務し始めたとき、最初にそこの事業部長に聞かれたことが「君、タバコ吸うの?」ということです。

「いや、吸わないです」と答えると、「吸わなくてもいいから、お茶もってでもいいから、定期的に、タバコ場にきなよ」と、返されました。

「タバコ場では、仕事場では絶対でないような話が聞けるし、その時の職場の空気とかもわかる。それは、結果的に仕事にすごく生きてくる。だから、絶対そういうコミュニケーションを大事にしなよ」というお話でした。

つまり、目的性だけでなく、共同性も大事だというお話なんです。

システム開発の場で、みんなでプログラミングやって行こうというのが目的性です。一方、タバコ場でリラックスしながら話をしているのが、共同性です。

仕事を進めるには、この両方が同居している必要があり、片方が落ちてしまうと、そこでいくら頑張っても、歯車が回らなくなってしまうということを、事業部長はおっしゃりたかったのでしょう。

それで、話をデモに戻しますが、デモにも、タバコ場同様、共同性を生み出す力があります。

なぜ、デモによる共同性が必要かというと、さきほど、新しい社会運動の説明で話しましたが、システムの「下」とか「外」に押し出されていった人たちは、共同体から弾かれてバラバラになっちゃうわけです。

小熊英二さんの言葉でいえば、こういう方たちを「ないがしろにされた」人たちといいます。

だから、「ないがしろにされた」人たちには、もう一度、デモなどを通して共同性を獲得していく場が必要になります。

この共同性を提供したところが、僕は、デモの功罪の功の部分だと思います。だから、僕は別にみんなで集まっていること自体が無意味だなんていうつもりはありません。

しかし「デモがある社会がいい」という方は、デモには共同性があるだけでなく、結果的に目的性もあるとおっしゃられる方が多いんですね。

つまり、デモをやることが、脱原発などにつながるということです。

ここで私は立場を異にします。そして、デモは無効だと言い続けています。「意味はあるけど、効果はない。デモで原発は止まらない」と。

そして、この無効性こそ、功罪の罪の部分だと思います。

目的性があると言いたいがために「警備している警察官が、実は僕も脱原発なんですと、耳打ちしてくれました」とか、「政府筋によれば、デモがあること、政治家がすごく嫌がっていて…」だとかいう人がいます。

でも、そんなこといっていても仕方ないんです。実際、脱原発は閣議決定されていないし、原発立地地域にいけば、脱原発派が勝った例はないですね。相変わらず推進派が勝ってしまう状況が続いています。

それは、米国や経済産業省をはじめとする官庁、財界、政治家も含めて根強く原発の必要性を求めていく構造が、結局1ミクロンたりとも動いていないからです。

他方で、原発立地地域やその周辺の政治権力の構造もまったく変わっていません。

結局、デモの共同性が目的性にフィードバックされるというのは、幻想だったわけです。

では、なぜ脱原発デモは、僕が二つの原子力モデルと呼ぶ、地方の原子力ムラと中央の原子力ムラを1ミクロンも崩し切ることができないのでしょうか。

脱原発デモ参加者は、自分は社会の「下」や「外」であるとか、自分は東京にいたけど、この事故の当事者で、デモに参加する政治的正当性をもっているといいます。

しかし、さらなる「下」や「外」があり、そこには難しい問題があることを彼らは理解していません。

これが、脱原発デモが無効となった大きな要因であると私は考えます。

具体的にどういうことかというと、わかりやすい話では、原発が止まったあとの原発立地地域の雇用の問題、生活のリスクの問題を考えていないということがあります。

また、都会でも下町の工場の電気料金が上がっちゃうという問題があります。

計画停電の区域になってしまうと、ただでさえ、円高もこれだけ続いて、景気も悪くなって、工場経営も成り立たないのに、さらに停電なんかあったら潰れちゃうよ、という声もでてきます。

こういう、弱者の事情だけをいうつもりはありません。

財界の人にとっても、「止まったらいいって、開き直れたらいいけれど、止まったら止まったで、損害でるのは事実だし、社員の生活もあるし、諸手を上げて賛成することはできないよね」という状況があります。

このように、脱原発デモに参加している人たちが「下」や「外」であったとしても、彼らの周りには、地方の原子力ムラという「下」や、財界とか官庁による中央の原子力ムラという「外」があり、そこには複雑な事情があるんです。

ちなみに、原発の問題ってフクシマ論一冊かけて説明したことですけれども、この国の一番「下」や「外」の人によって成り立っているものなんですけどね…。

このあたりを理解しないで、狭い視野のまま機械的に「ゲンパツイラナイ」と叫んでいても、共同性が目的性につながることはないでしょう。

それで、今までデモの功罪について述べてきましたが、今度はそもそも「デモのある社会」って、いいものなのだろうかという、根本的な問題について考えてみたいと思います。

「意味はあるけど、効果はない」という話は、脱原発デモに限らず、そのまま、フジテレビ抗議デモなど反韓流デモにもあてはまると思うんです。

彼らも「自分たちは、マスコミの被害者であり、在日特権をもっている外国人の被害者である、自分達こそ、「下」であり「外」である」といいます。脱原発デモと同じですね。

じゃあ、2千人、3千人集まっただか、知らないけれども、効果はあったかというと、無かったんです。迷惑ではあったかもしれませんが…。

目的性につながらなかった理由は、フジテレビが巨大なメディアであったこともそうですが、反韓流とか言われても、韓流が好きなおばちゃんやフジテレビのクイズ番組を家族で見るのが楽しみな人が大勢いるからです。

脱原発デモ同様、自分たちが「下」とか「外」で、真の当事者だと言いつのるだけで、さらなる「下」とか「外」の事情を見据えていないわけです。
言い方を変えれば、自分たちの主張の功の部分だけを見て、罪の部分を見ていないということです。だから、結局、デモは無効になってしまいます。

僕が、この功を見て罪を無視するデモを見て感じるのは、脱原発デモにせよフジテレビ抗議デモにせよ、あるいは橋下ポピュリズムにせよ、これらは再宗教化的な事象の一つにすぎないのではないかということです。

自分たちの正当性を一切疑わず、コミュニケーションの可能性が失われているところも、結局、何も課題が解決されないところも、最初に述べた放射線が安全か危険かという議論とほとんど同じです。

そして、再宗教化的な事象と考えると、「どのデモの教義が正義であるか」ということを安易に決めることはできなくなってしまいます。

「この正義に基づいたデモはOK」といっちゃった上で「あのデモはだめ」とは言えないんです。

結果として、「デモがある社会」を肯定するっていうことは、脱原発デモもフジテレビ抗議デモも肯定される社会になりかねません。

そこの倫理を冷静に検討すると、僕は、その話にはあまり乗れないなと思ってしまいます。
僕がデモのある社会を手放しで肯定できないのはこういうことです。

こういうと、脱原発デモやオキュパイウォールストリートは倫理的で、フジテレビ抗議デモは非倫理的だという人も多分いるでしょう。

政治的に弱者を守るとか、正当な政治を要求するという話と、弱者を排除する話は違うから線引きが可能だという主張です。なんとなくわかるような気もしますね。

ここの線引きの境界線が何かというと、ポリティカルコレクトネスがあるかないかなんです。

でも、ポリティカルコレクトネスの有無って、所詮、相対的なもので安易に白黒つけられるものではないんです。

昔は、脱原発は、いわゆる左派、革新派が主にする主張でした。そして、原発推進や戦後補償の問題も含めた反韓流は、言説の質としては、どちらかというと右派保守よりのものでした。

左派から右派をみたら、当然、倫理観、ポリティァルコレクトネスがないように見えるでしょう。

しかしですね、右派から左派をみたら「脱原発?なに理想を言っているんだ。国民の生活どうする?」みたいな話にもなってくる。そして、さきほども少し話しましたが、そこに理がないわけでもありません。

もっと言ってしまえば、この55年体制的な議論の枠組みの外にいる人からしたら、どちらの倫理観もどっちもどっちで、どうでもいいんです。どちらも、乱立する宗教化された正義の一バリエーションに過ぎないわけです。

こうなると、極めて偶発的にとんでもない正義が選択されてきてしまって暴力的なデモが発生しても、やっぱり、何もいえないということになります。

今のところ、脱原発デモを通して、左寄りの知識人の言説が社会に大きな影響を与える循環が働いていますけれども、「いつまでも、そんなうまくいかねーよ」と、僕は思っています。
事実、いわゆる「過激派」と呼ばれる新左翼党派は、脱原発デモを機に今までない勢いで組織を拡大しているようです。

こういう観点にたったときに、安易に「デモのある社会」」を肯定すると、「火傷するリスクはありますよ」ということだけは、いっておかなくちゃいけないと思っています。

★第4章 「社会を変えろ」という声は大きくなる

デモや社会運動について述べてきましたが、なぜ、脱原発デモをはじめ、社会運動が流行るかというと、当たり前ですが、「社会を変えて欲しい」と考える人が多いからです。

言い方を変えると「社会が変わっていない」と感じる方が強いからです。

これは、なぜなのかについて考えてみたいと思います。

「フクシマの正義」の副題は、「日本の変わらなさとの闘い」です。小熊英二さんの本は「社会を変えるには」、湯浅誠さんの本が「ヒーローを待っていても世界は変わらない」です。

実は、こういう「変える」、「変わる」、「変え方」、みたいな本が2012年の夏から秋にかけて相当数出ている状況があります。

本のタイトルとか雑誌の記事の見出しとか作るときって「これ、世間の人が求めているけど、まだ、言語化されてないんじゃないの」ということばを、あえて、あてたりしますね。

「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」とか、まさに、そういう話ですね。

だから、みんな「変わってない」、「変えなくちゃ」という思いが認識のレベルではあるということだと思います。

しかし、認識のレベルと、現実のレベルでは話が全然違っていて、歴史的に後から振り返ったら、今の状況ってむちゃくちゃ社会が変わっている状況だと思うんですよ。

震災があったことはもちろんだけれども、これだけ短期の間にリーマンショックもあったし、福島の事故もあったし、民主党政権もできたし、55年体制も完全に崩れたと。

過去10年でみれば、9.11などもありました。

55年体制下のほうが意外と同じような、形、形象の社会が続いていたから、安定していた、変わっていないとう判断が下されてもおかしくないわけですね。

だから、重要なのは、変わっているっていう、ありかたが、あまり見えずに、「変わっていない感」「変えたい感」が、せり出している状況はなぜなのか、ということを考えることなんだと思います。

この点について、いろんな説明の仕方がありますが、ここでは、社会学の中間集団論と個人化論を用いて説明していきたいと思います。

どういう話かというと、もともと国家においては、「政治」というものと「個人」というものの間には、相当ギャップがあるんですね。

当たり前ですが、いきなり個人で政治を変えようと思っても、国政まで声を届けるのは簡単ではありません。
では、どうするかというと、中間集団と呼ばれるものに働きかけていくんです。

中間集団って何かというと、政治と個人の中間にあり両者をつなぎあわせる存在ですね。

例えば、家とか会社とか組合とか地域社会です。商工組合とか経団連など業界団体もそうですね。

中間集団がどういう機能を果たしてきたかというと、例えば、ちょっと、病気で仕事ができなくてお金が苦しい人がいたとします。

そうすると組合などが、「じゃあ、うちが守ってあげるよ」とか「ちょっと行政にいってみようか」とか相談にのってくれたんです。

他にも、組合や業界団体がまとまって「今年はこんな形で、国に制度の改善を要求していこう」とか、「うちの業界の利権をこんな形で制度化して守っていこう」とか様々な形で個人の意見を政治に吸い上げていきました。

しかし、改めていうまでもなく、若い人の間では組合とかは流行らなくなって、どんどん組織率が下がっているし、未婚率も高くなって家庭を持つ人も少なくなってきている。地域社会も過疎化が進んでいます。

集団的なものから個人が解放されることを個人化といいますが、日本では個人化が進行しているんです。

その結果、中間集団というものが社会から抜けてしまい、国政など大きなものと、個人のような小さなものが、直結するようになっちゃったんですね。

直結してどうなったかというと、小さな革命感、小さな変革感というものを得られる機会がどんどん少なくなってしまいました。

どういうことかというと、昔は、会社で昇進したとか、組合で春闘やって目標額を勝ち取ったとか、小さな革命や変革が、いっぱい身の回りで起こっていたわけですよ。

地域社会では、政治家の先生に頼んだら、家の近くに道路作ってくれたみたいな大きな変化もありました。

しかし、中間集団がなくなって、日本人が個人化した結果、こういう機会がとても少なくなってしまったわけです。

だから、社会はどんどん変わっていきているにもかかわらず、個人のレベルでは、「変わっていない感」がせり出してくる状況が生まれてきてしまったと僕は捉えています。

では、こういう状況を、国政を担う政治家の側から見てみましょう。

民主党の政治、あるいは昔の社会党の政治は組合をバックにしていました。

組合の中で、ある問題について勉強会をして、講演会もやって、こういう方針で社会党に働きかけて、自分たちの考えを国政に反映してもらうという動きがあったんです。

しかし、こういったものはがどんどん崩れていく中で、政治家の安定した支持基盤がなくなっていくわけですね。

中間集団に自分への支持を呼びかけても票が集まらないんです。

では、どうするかというと、個人化された個人に支持を訴えかけなくちゃならない。

しかし、個人に訴えかけるのと、中間集団に訴えかけるのは、全然フェーズが違うんです。

中間集団に支持をお願いする場合は、地道な調整になります。「わかった、あなたたちの要求を飲むから、こういう形で選挙のほう応援してくれ」とか、「街宣車だすからビラ配ってくれ」みたいな話です。

ところが個人が相手になると、そんな細かいこと、いちいち言っても仕方ありません。

「TPPやるけど、米の割合はどうしよう」みたいな難しい調整で支持を取り付けようとしても、その判断を個人のレベルで担うのは事実上不可能なんです。

では、どうするかというと、調整ではなくて、あおりになるんですね。郵政打破とか、わかりやすいアジテーションで支持を得ようとします。

知識と論点を整理して論理的に説明しても、それを聞くのは個人にとってきついから、難しい話は単純化して、表層的なところだけを伝えるようになるわけです。
小泉構造改革も民主党の政権交代もアベノミクスも、実にわかりやすいあおりです。

このようにして、「社会を変えろ」という声が日夜繰り出され、「変えろ、変えろ」と煽り立てる政治家がもてはやされる風景が繰り返されるわけです。

では、「社会を変えろ」という声が大きくなり、その声にこたえる政治家に支持が集まる社会の問題について話してみたいと思います。

小泉構造改革の話でいえば、小泉さんのときは、まだ、「郵政の組合が強いんじゃねえの」とか、「業界団体が強いんじゃないの」みたいな話があったけれども、やってみたら全然そんなことはありませんでした。

小泉さんの時代から、もう、10年近くたとうとしていますが、郵便局が民営化したことで、日本人が幸せになりましたかっていう話です。

郵政の状況を細かく、ここで述べませんけれども、国民の生活が良くなったとか、悪しき権力が排除されたかっていうと、必ずしもそうじゃないと、いう論者が多いですね。

つまり、この、あおりって全然人を幸せにしないんです。

あのときは、8割方の国民が支持していたとかいうけれども、そんな単純な話じゃなかったわけです。やっぱりもっと細かい調整をすべきであったと思います。

原発の話、エネルギー政策の話もそうです。

短期的に、これはいいんだとか、これは危ないんだとか、わかりやすい表層的で単純な話をしたところで、本質的な問題は忘却されて、今の権力構造が、淡々と維持されるだけです。

中間集団と個人化の話にちなんで、道州制の問題について、最後に触れておきます。

道州制というのは、今まで区分けされていた県や府という中間集団を廃止したり、村などの中間集団を合併したりして効率化を図ろうという議論です。

中間集団が減少するので、人々は個人化し、自己責任、自己決定の比重が大きくなります。

大阪や東京など、経済的に余剰があるところ、つまり、自己決定して自己責任をかぶせられても問題ない強い人が多い地域は、道州制モデルで行けるかもしれません。

しかし、地方はお年寄りが多いから、自己決定してくださいといってもきついわけです。

「難しいこと考えたくないですわ、先生に任せたいですわ」という話になるんです。

しかし、今でも、行政も病院も人が全く足りていません。

会社や組合をそのまま復活させることは無理ですが、中間集団的なものを、新しい形で作っていかなければならない状況です。

民主党が政権とったときに、新しい公共論とか新しい中間集団を作っていこうという議論があったわけですが、結局形骸化しました。実現可能性が低いことをいっちゃったのかなと…。

道州制について考えるときには、この中間集団をどうするかという視点は常にもっていなければならないと思います。

地方の制度も「変えろ、変えろ」とあおっていれば、いい話ではないんです。

★第5章 「社会を変えろ」という声で日本は変わらない

デモで社会は変わらないという話、「社会を変えろ」という声が日夜繰り出され、「変えろ、変えろ」と煽り立てる者がもてはやされる割に、まったく状況が変わらない話、をしてきました。

その上で、ここでは、そもそも「社会を変える」ことはいいことなのか、という根本的な話について自分の考えを述べてみたいと思います。

僕自身は、「社会を変えること」に否定的で「変わっていく社会」に肯定的です。

もう少し正確に言うと、「社会を変える」ことの実現可能性は低いので、自然と「社会が変わっていく」の流れの中で、ものごとを考えていくほうが、実現可能性が高い、と思っています。

どういうことかについて、これから説明していきます。

社会変革を議論するにあたって、いわゆる、保守型の議論構成と革新型の議論構成があります。

革新型は、社会をある種人工的に、人の手で、変えていこうという感じですね。そうするといい社会がくるという主張です。

不具合が出ている機械があったら、直すべきだし、新しいものと交換すべきというものです。

とても合理的で、確かに、そうなんだけれども、それで、うまくいくかというと、そんなことはないわけです。

うまく行かなかったのは、例えば、フランス革命です。

いろんな方が言っている話なので簡単に説明します。

フランス革命は、革新思想で王政を倒しました。倒した結果、どうなったかっていうと、もう一回独裁制、帝政がもどってきたわけですね。

もちろんそこで、人権概念が出てきたり、新しいナショナリズムの形が生まれたりという成果はありました。

しかし、結果として王政が倒されたあとも、独裁制が短期的に復活してしまい、むしろ社会はギスギスとして、かつての良くない部分がより強固に出てきてしまったのです。

ちなみに、革新思想というのは、基本的には、社会がシュリンクする中で、でてくるものです。

例えば経済成長しているとか、新しい科学技術がどんどん出てくるなど、社会が次々動いているときは、あまり流行りません。

非政治的な部分で革新が既におこっていますから、政治的な部分で誰も革新をおこさないわけです。

しかし、現代の日本のように、高齢化して経済が停滞したり、新しい文化がなかなか生まれてこない状況の中では、政治的な部分で革新的に「社会を変えようぜ」という話がでてきてしまいます。

この革新思想に批判的だったのが、保守思想家エドマンド・バークです。

バークの思想は、人間の理性ばっかり信じていないで、そこにある自然とか、慣習など社会が変わってくる中で生まれてきた、自生的なもの、自発的なものを生かしながら、社会をつくっていきましょう、というものです。

まず、この革新型議論と保守型議論を押さえてください。

一方でここからは知っている方と、知っていない方がいるんですが、保守思想も知った上で、それであっても「革新するんだ」というマルクス主義者の方向もあるんです。

つまり、ここの革新と保守の議論は、常に拮抗したり、循環したりしている状況があるんです。

90年代、西部さんとか宮台さんは保守の方向で議論をとめていたところがありましたが、僕は、保守を踏まえて革新を目指す議論もあるんだろうなと思いつつ、高校生活を過ごしていました…。

それで、同じ革新でも、保守も踏まえた上で革新に戻ってくるのと、ふまえずに、革新の方向だけで、ずっと止まっているのは、議論の質が全然違うと思っています。

社会を変える際に、?に位置している人か、?に位置している人かというところで、だいぶパターンが、違うように思いますね。(レジュメの図参照)

僕は圧倒的に?に位置している人の感覚を信じていています。小林よしのりさんとか、宮台真司さんとか、浅羽通明さんも?に近い立場だと思います。

地域の自生的、自発的な共同性を大切にして、目的性にフィードバックしていく、つまり、乱暴に「社会を変えていく」のではなく、「変わっていく社会」を大切にしながら、よりよく変わっていくように、うまく誘導していくという感じでしょうか。

逆に、?のある種、ナイーブでピュアな議論というのは、まったく同意できないというか、どうでもいいと思ってしまいます。

「まあ、言っていれば、何も実現しないと思うけど…」という感じです。

僕が「社会を変えること」に否定的で「変わっていく社会」に肯定的というのは以上のような意味です。

ハイエクの提示した枠組みを用いれば、設計主義対自生的秩序の対立において、自生的秩序を見落としてはいけない、という観点に立っているということですね。

その上で、社会を誘導するときに、先ほど、市場と政治の対立の話をしましたが、市場のことばを使っていくという立場をとります。

革新型の議論を好む人は、しばしば、政治的なことばを使ってしまう傾向があると思うんですね。

かつては、強い政治的なことばで、「実は、こんなに苦しんでいる人がいるんだ」とか、「こんな紛争が起こって困っているんだ」みたいな議論の枠組みが、いきた時代もありました。

だから、言い続けることは重要ですけれども、それで、社会が変わるかというと、リアリティーがありません。

ちゃんと現実を直視しながら、変えていくべきものを、改善していくべきなんです。

僕はしばしば「社会のOSを変えろ」といいますが、これも同じ意味です。

古いパソコンをどうにか有効活用したいけれども、どう頑張ってもソフトが起動しないという状況があるとします。

そのためには、自発的、自生的に次々出てくる新しいソフトウェアの動向をちゃんと見据えながら、OSをとりかえる必要があります。

ソフトウェアもOSもひっくるめて、新しいパソコン買っちゃおうぜみたいな、話が、革新側です。

そのために強い政治的な言説をガンガン繰り出しますが、ゼロからパソコン買い替える金は日本にはないんです。

市場のことばを無視して、何か言っても絵空事にしかならないんですね。

しかし、なかなか皆さん、ここの議論の枠組みに進んでこれないんですね。坂本龍一さんとか。内田樹さんは?に来ている気もしますけれども…。

高橋源一郎さんなどは朝日の論壇時評とかみると、?に来ていないという話ではなく、?と?の峻別がないのかなっていう印象はもっています。

世代論に還元するつもりはないですけれども、比較的昔の運動の枠組みで考えていると、?にいっちゃうのかなという気がしますね。

次に、国民の側にも「社会を変えていく」方向で強い言説を吐く人がいるのは、なぜかという話をしてみたいと思います。

例えば、僕がWEBに記事を出したときに、twitterのリアクションとか見ていると、強烈なことばで、5分に一回ずつぐらい「東電がこんなんやっている〜」、「開沼クソだー」と書いている方がいます。

過激なことばで単純な正論を唱えて社会が変わればいいのですが、やはり、それだけでは社会は変わりません。

むしろある種の思考停止を生んでいて、社会変革から逆に遠ざかっているようにも思えますね。

なぜ、こういう方が増えてしまうのでしょうか。

情報社会論的な話で説明すると、情報が腐るほど増えている一方で、僕は論点整理と呼びますが、「論点整理が効きやす過ぎる社会」になっているということが要因ではないかと思うんです。

つまり、今は、生ものの情報が増える一方で、加工され体系だった論点や知識がすごく減っている傾向にあるんです。

例えば、放射線の議論も、情報はいくらでもあるのに、論点は危険か安全かしかありません。白黒つかない、グレーなところがあるはずなのに、両極端なところに収斂してしまうような状況がある。

このグレーなところが、本当は現実のはずなんですけどね。

昔は、いわゆる論壇総合誌がありました。これは右派で、これは左派で、これはある宗教団体の影響があって、これは政府と癒着的でみたいな、感じで、バリエーションに富んでいた。

だから、情報は少なかったけど、論点と知識の多様性は保たれていたと思うんですね。

そのため、自分自身を、言論の多様性の海においたときに、「ちょっと理想的過ぎたな」とか、「現実的過ぎたな」、という感じでフィードバックが得られた。

だから、政治的発言をするにしてもバランスがとれたんです。

しかし、今は、多様性が減少し、なんとなくみんなが政治的に正しいと思うことだけに、ことばが収斂されていってしまう状況で、自己反省する契機が奪われてしまっています。

結果として単純な正論で「社会を変えよう」と叫ぶ人が後を絶たないのです。

★第6章 希望なき時代を私たちはどのように生きていけばいいか

今は、社会全体に自分たちが「下」だ「外」だ、みたいな、被害者意識が非常に強くはびこっていると思います。

しかし、厳しいことをいえば、「これはだめだ」、「あいつどうにかしろ」、という話をずっとしていても意味がありません。

社会について何か考えたいと思って、この講義を聞いている方は、「自分は何ができるのか」を考えてください。

「あいつに何かやらせろ」いう陳情型モデルではなく、「自らがどうするか」という、経営者型のオーナーシップ、当事者意識に基づいた活動が、社会をよりよくしていくと思うんです。

結局、オーナーシップをもてない人は、外に敵や理想をつくります。そして、「政府が悪い」とか、「こんな社会が理想的だ」とか、いうだけいって、問題の解決を人任せにしてしまいます。

「ないがしろにされた人が、社会を変えていくんだ。以上。」、みたいな、学者の傲慢で上からモノをいうだけの小熊英二さんのように…。

昔はこういう言説が役立ったかもしれないけれども、これからの社会にとっては、無効かつ有害で、悪しき社会構造を再生産するだけになってしまうでしょう。

また、デモのところで述べましたが、似たもの同士、共同性の群れの中にとじこもり、騒ぐだけ騒いでいてもだめです。結局、目的性につながっていきません。

とはいえ、目的性をもつことは、すごくきついことです。目的性を追求する仕事をすれば、群れから出ざるを得ず、自己決定、自己責任が求められる状況に必然的に、陥ってしまいます。

だから安易に「目的性を志向しろ」ということも私にはできません。共同性の群れの中で幸福を感じるひともいるからです。

例えば、ネット右翼、ネトウヨと呼ばれる人たちです。安田浩一さんの「ネットと愛国」で詳しく紹介されました。

誹謗中傷される立場の人にとっては、耐えがたいものではあるかもしれないけれども、ネットに居場所を見つけて、ただ、書き込んで、憂さを晴らすことは、彼らが幸せになるための、一つの方法かもしれません。

脱原発デモなどで、立地自治体の社会的弱者が標的になるよりは、お上に立ち向かっていったほうが、社会にとってむしろいいという、議論をする人がいますが、僕も納得します。

こういう人たちが一定数いることは、仕方ないし、そういう生き方を完全否定する気もありません。

結局、共同性、目的性どちらに重きを置くかは、あなた次第ということです。

参考になるかどうかわかりませんが、最後に、僕自身の構えについて話します。
僕は、やっぱり知的に誠実でありたいと思っています。

知的に誠実であろうとすれば、黒だ白だと簡単にいえないわけです。例えばエネルギー政策の問題でいえば、「今の時点で答えは出せない」というのが僕の持論です。

知識人が「すぐに答えを出さなければ」という不安に駆りたてられているのが問題で、なぜ、「わかりません」のひとことがいえないのか、疑問です。

例えば、日本が初期の癌患者だとします。

初期であれば、放射線でやるか、副作用のリスクも踏まえて抗がん剤でやるか、あるいは、抗がん剤と放射線を合わせて両方やるかなど、いくつかオプションがあります。

まだまだ救いようあるから、事実を事実として客観的に伝えて、各オプションのリスクと効果を示してあげることが一番必要だと思うんです。

このやり方が絶対正しい治療方法だ、みたいなことを、簡単にいうべきではないと思います。究極的には何がいいかは、わからないわけですから。

さきほど、再宗教化といいましたが、宗教的なるものっていうのは、一言でいえば、正解なき社会の中で、独自の答えや教義を作っていこうとするものです。

だからこそ、再宗教化された社会では、安易に答えを作る動きを相対化することこそ知識人の重要な責務となるはずです。

しかしながら、自分の学問的正当性を証明したいがために、抗がん剤がいい、放射線治療が最良だ、脱原発しよう、と安直に治療方針を出してしまう、知識人が多いのです。

こういう、知識人の傲慢さ、適当さ、利用主義的なところは、とことん因縁をつけていきたいなと思っています。

とはいえですね、日本も末期癌になってしまったら、オプションを提示してリスクと効果を患者に説明して、なんてやっている場合ではなくなってしまうんですね。

そこまでいってしまったら、「これが答えだ」と僕は傲慢にも独断で答えを示しだすかもしれません…笑。
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講師紹介

開沼 博
開沼 博
講師プロフィール

開沼博(かいぬま・ひろし)1984年福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。専攻は社会学。2011年人文・社会部門で毎日出版文化賞受賞。

代表著作

『「フクシマ」論-原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社、毎日出版文化賞受賞作)

『フクシマの正義-「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)

『地方の論理-フクシマから考える日本の未来』(佐藤栄佐久氏との共著、青土社)

『「原発避難」論-避難の実像からセカンドタウン、故郷再生まで』(明石書店)